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月からの甘い誘惑 6

 おやすみなさいと挨拶して久世さんは自分の寝室へ。
 マンションは広くて、碧に使っていいよと言ってくれた小さな部屋とさらに久世さんの寝室まであってリビングダイニングまである。

 碧なんて狭い何もないワンルームのボロアパートだったのに、それさえもなくしてしまった。
 考えても仕方のない事だ、と兎に角今日は寝てしまおうと借りたソファで横になって無理に目を閉じた。
 けれど、興奮してるのか、落ち着かないのか、なかなか眠気がやってこない。でも無理にでも、と思って目は閉じていた。

 うつらうつらと眠くなってそしてはっと目が覚める。
 それを何度も繰り返した。
 どうしても脳裏にはあの光景がこびりついていた。
 そしてこれから先の事をも考えてしまえば落ち込んでくる。
 碧がようやっと眠れたのは朝方に近づいた頃だった。

 「碧くん」
 声をかけられ、身体を揺すられてはっと碧は飛び起きた。
 目を開ければすでに久世さんは着替えも終わってぴしりとスーツを着ている。
 「あ!もう出る時間!?」
 「もうちょっとで。折角気持ちよさそうに寝てた所すまない」
 「いえ!そんな!急いで着替えます!」

 ばっと着てた久世さんのスウェットを脱いで昨日着ていた服をまた着る。
 「あ~!洗濯もしたかったのに」
 なにしろ久世さんの洗濯物が山になっていたのだ。
 「…久世さん…洗濯、した?」
 碧が聞くと久世さんが小さく頭を横に振った。
 …だよね。する位なら部屋はああはなっていないはずだ。

 しかもすでにソファには久世さんの着ていたパジャマ代わりのスウェットが放置されていた。
 なるほど、あれが積み重なって昨日みたいな状態になっていくのか。
 でも今はそれどころじゃない!
 「すみません!」
 久世さんに貰った歯ブラシと借りたタオルやらで碧は大急ぎで身支度を整えた。

 なんか喉が痛いな、だるいな、と一瞬思ったけれどそんな事気にしている余裕なんてない。
 慌てて用意を済ませると碧は全財産の荷物を持って久世さんと一緒にマンションを出た。
 途中でコンビニに寄って朝ごはんを調達。それも久世さんが出してくれて、碧は小さくなるしかない。
 居候させてもらって、送ってもらって、買ってもらって…。
 自分は何しているんだろう?
 「気にしなくていいから」
 「でもっ」
 金額を書こうにも情けない事にメモ紙一つ、ペン一つもないのだ。

 「ちゃんと後で返します」
 「余裕が出来たらでいいよ」
 くすりと久世さんが余裕な笑みを見せる。
 「…すみません…正直…助かります…」
 「うん」
 落ち着きのない碧と違って久世さんは大人だ。態度も言葉も全部がスマートで、たった三つしか違わないはずなのに本当に碧とは全然違うのだ。
 
 「ありがとうございました」
 碧の店の前で久世さんが車を止め、碧は車を降りながら礼を言った。久世さんの銀行はここのもうちょっと先なだけですぐ近くだ。
 「どういたしまして。じゃあ仕事頑張って?でも無理はしちゃいけない。昨日あんな大変な事があったのだから…」
 「…はい。あの、後で銀行行きます。久世さんも…いってらっしゃい」
 店の開店前に両替などの為に銀行に行くのは碧の役目だ。
 「…いってきます」
 くす、と笑って久世さんは車を出して去っていった。

 なんとなく心細い気がするのはどうしてだろう?
 このまま久世さんに出て行ってくれと一言でも言われれば碧は路頭に迷ってしまうからだろうか?
 早くアパートを決めないと。
 久世さんにも迷惑がかかってしまう。
 でもお金が…。
 保険に入っているはず、と久世さんが言ってたけど、そうなのだろうか? 
 自分がアパート借りるときにはあまりそんな事気にしなかったのに…。

 今度はちゃんと気にして、説明も聞こう。
 まさかアパートが燃えてなくなるなんて事が自分の身に降りかかるなんて思ってもみなかった。
 有給もらえないだろうか…?
 アパート探すんでも、保険の事聞くのでも仕事してては無理だ。
 あとで店長に聞いてみようと思いながら碧は持っていた店の鍵で裏から店に入る。
 開店前の準備は碧の仕事だ。
 いつもと同じようにショーケースを拭いたりと決まった事を始める。
 同じ毎日なはずなのに自分の住処がないだけで心許ない気がどうしても拭えない。
 考えないようにしよう、と思いながら碧は動いた。
 
 

テーマ : 自作BL小説
ジャンル : 小説・文学

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