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月からの甘い誘惑 34

 「碧っ!」
 そう呼ばれて振り向いたら久世さんが走って向かってきた。
 「久世…さん…?」
 「どうした!?」
 ホテルのロビーの端をシャツの前をかき合せながらコソコソと抜け、外に出てようやく一安心したところだった。
 駅のトイレででも貰った服に着替えようと思っていた所だったんだけど。
 久世さんが碧の肩を掴んだ拍子にかき合せていた手が外れ、弾けたボタンのシャツを見ると久世さんが目を見開き、そしてきつく眉根を寄せた。

 久世さんの顔が…怖い事になっている。
 「………きなさい」
 「で、でもっ!」
 久世さんが低い声でそう言いながら上着を脱いで碧の肩からかけてくれるとそのまま肩を抱いてどこかに連れて行こうとする。
 「ホテルの地下に車を停めているから車に乗っていなさい。あとすぐ帰る。今、由紀乃さんを上のレストランに残してきているから、駅まで送ったら帰る。いいかい?」
 「で、でもっ」
 「碧!そんな格好で電車も乗れないだろう!」
 「着替えあるし…大丈夫…!」

 大丈夫なんて碧の言葉は聞こえないようにぐいぐいと久世さんが碧を連れてもう一度ホテル内に戻るとエレベーターで地下に向かう。
 「いいから。車に乗って少し待ってて」
 「………」
 こくりと碧は小さく頷いた。
 どうしよう…。
 折角涙が止まってたのに泣きそうだ。
 見慣れた久世さんの車の助手席のドアを久世さんが開けてくれたので碧は座った。

 「着替え、ある?」
 「…うん…ある…貰った服…あるから…」
 「じゃあ着替えてなさい。駐車場は暗いし見えないだろう。キーは閉めておいて」
 「……うん」
 「すぐ戻ってくる。もしなにかあれば携帯に電話。いいね?」
 「……はい…」
 久世さんに上着を返しながら碧が小さく頷くと久世さんは車から離れてまたエレベーターの方に行った。

 なんで久世さんがここにいるの?
 上に由紀乃さんを残してるって言ってたからどこかで食事してたんだ…?
 車…助手席に乗せられたけどいいのかな…?
 あれ?でも駅まで送ってくるとか言ってたけど…。
 駅はすぐ近くだけど…。
 着替え、と思ってのろのろを袋を開けて適当なものを取り出し、ボタンの外れたシャツを脱いで着替える。
 そしてそっと身を隠すように小さくシートに沈んだ。

 どうして…?
 由紀乃さんといたはずなのになんで久世さんはわざわざ飛び出してきた?
 碧を見かけたとしたってデート中なんだから普通はそのままスルーするだろう。
 それなのに…その相手を置いてわざわざ後ろから追いかけてきて…。
 じわりとまた涙が浮かんできた。

 嫌だった。ホントに。
 前はそこまで感じなかったのに…。
 芹沢さんには触れただけでも悪寒が走った。それなのに久世さんが肩抱いてくれたのには嬉しいって思ったんだ…。
 スーツの上着がだぼだぼで大きかった。
 じわりと浮かんだ涙が一度溢れたら、ぼろぼろと拭っても拭っても零れてくる。
 一人で惨めな思いのまま電車で帰る所だったのに久世さんが見つけてくれた。
 そして連れ帰ってくれるんだ…。
 安心していいのかな…。

 久世さんのマンションも久世さんも久世さんのベッドも碧の安心出来る場所になってしまっている。
 それは碧が勝手に思っている事だ。
 それに…こうして車で待ってていい…なんて。
 デートの相手を放って自分の所に来てくれたのが嬉しいとか、こうして助手席に乗ってていいとか、碧の中でそれはさらに久世さんに対する気持ちを増長させてしまうのに…。

 いいの…?
 違う…と碧は頭を横に振った。久世さんは優しいんだ。
 親鳥って言った。
 ただ単に碧を小さい子の様で放っておけないだけなんだ。
 碧の気持ちとは全然違う。
 でも、それでもやっぱり碧の中で気持ちは育ってしまう。

 好きだ…。
 苦しい位。
 でももしそんな事言われたって久世さんにとったら迷惑でしかない事だ。
 そんなの分かってる。
 早くアパート見つけて出て行かないと!
 そう思っているのに出て行きたくないと思ってしまうんだ。

 「わけわかんね…」
 声に出してみる。
 もう好き、はきっと治まらない。
 諦めるしかないって分かってても好きな気持ちはどうしようもないだろう。
 「久世さん…」
 苦しい…。
 今日のだって過去のバカな自分が撒いた種なんだ。

 「バカだ…」
 碧は助手席のシートで小さくなって頭を抱え身体を抱えた。
 そんなのよく分かってる。
 芹沢さんが言ったのは何も間違っちゃいない。
 でももう碧は前とは同じにはなれないんだ。
 
 

テーマ : 自作BL小説
ジャンル : 小説・文学

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