「あの…これ?」
三塚 絋士と名乗った男がピアノの上に置かれていたポスターに気付いた。
「ああ、…今度コンサートするんです。よろしければ…」
「是非。チラシいただいても?」
「どうぞ」
しかし…本当にいい声だ。この声でこの容姿じゃさぞかしもてることだろう。耳元で囁かれたらきっと女性はイチコロなはず。
「リサイタル…すごいですね」
「僕はたいしたことないですよ。国際コンクールでは三位が今までで一番よかった位で…」
「それだってすごい事です」
「…………ありがとう」
賛辞は嬉しいがどうしても自分の中では微妙だ。葛藤はずっと凪の中で続いているんだ。こうしてコンサートだ、ピアノ教室だとピアノ一色にも関わらず。
自分で自分の事はよく分かっている。ごまんといるピアニストでも自分は並だ。国際舞台で活躍できるピアニストなど一握り。そんな中で必死に喘いでいる。これでいいのかという自問自答は小さい頃からずっと。それでももう自分にはピアノ以外何もないんだ…。
「先生?」
「…え?ああ、すみません」
考え込んでしまっていたのに苦笑してしまう。
「…来週も今日と同じ時間で本当によろしいですか?」
「ええ。大丈夫です。お待ちしております。いいですけど…悲愴の3楽章仕上げますか?」
「……どうしたらいいですかね?」
「他のも聴いてみたい…かな。バッハやショパンなんかも」
「…バッハは苦手です」
男が眉を顰めながら言うのがおかしくてついくすと笑ってしまう。
「僕もですよ。でも素晴らしい。大人になってから偉大さが分かるようになりました。それからは好きになりましたけどね」
「…そうですかね?」
「ええ。あなたもそうなりますよ、きっと」
「……じゃ、何か弾けたら練習しておきます」
「ええ。是非。曲は難しいのじゃなくていいです。簡単な曲でそこから細かく直していきましょう」
「……はい。では来週もよろしくお願い致します」
お互いに連絡先、住所、名前、携帯番号など交換し、男が帰るのを見送るために玄関に出た。
靴を履くのに男が少し屈んだ瞬間甘くていい香りが漂ってきた。
「あ…手土産…ありがとうございます」
「いいえ。どういたしまして」
くすっと男、三塚 絋士が仄かに笑みを浮べた。
「気に入っていただけるとよいのですが」
…ケーキの事か?
「そこのケーキ…おいしいから」
ついぽろりと本音が出ると男が目を見開いた。
「ではまた持ってきますね」
「あ!いえ!そんな!いいんです!そんなつもりじゃないので!」
顔を赤くして慌てて凪が言えばくっと笑われた。
「ではまた来週」
「はい、お待ちしてます」
恥かしい!いい年した男がケーキって!
しかし男から甘い香りがしたのについおいしそうな匂いだと思ってしまったんだ。
はぁ~…と男が出て行ったのに溜息を吐き出した。…ちょっと疲れた。
どうしても初対面の人とは疲れる。
それでも話した感触もいいし、ピアノはブランクがあってぎこちない感じではあるけれど上手いし楽しみだ、と思う。
レッスン室に戻ると男に貰ったケーキの箱があった。
そっとリボンを外して開けて見ればこの間買うのに迷ったケーキが入っていた。綺麗で洗練された見た目に上品で繊細な味のそこのケーキ屋は凪のお気に入りだった。体験レッスンで金にもならないが1時間みっしりのレッスンをしてしまったが、その報酬でケーキだ。
「…悪くない」
くすっと笑ってしまう。だって頻繁に買いに行きたい位なのになかなか行けなくて我慢してたんだから。
さっそく凪は箱をキッチンに持っていって一個いただいてしまう。
「…おいしい」
それだけで幸せな気分だ。
…しかし男でこれを買いに行ったのだろうか…?
いや、アレ?今日は火曜日で定休日のはず。箱を見れば賞味期限は今日の日付だ。
「?」
今日は店やってたのか?まぁ、いいや。といただいたものを味わって一人で幸せな気分に浸る。
金出すからまた買ってきてくれないかな…と凪は余計な事まで考えてしまった。なにしろもう店の人に顔を覚えられてしまったみたいで、凪がケーキ屋さんに行くと店員さんがニコニコ顔で迎えてくれるのだがそれが恥かしい。
それでも我慢出来なくて行ってしまうのだが…。もう少し慣れて仲良くなったら今の男に頼んでみようか、と密かに目論んだ。
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