楽しみにしていた火曜日。リサイタルが近い為、凪はレッスンが入っている時間までは自分の練習。いくら練習したって満足のいく出来になどなったことがない。それなりに上手く弾けている。それは分かっているが、それで人を感動させる曲になっているかといえば絶対にそうではないんだ。
…自分でよく分かっている。
それが自分の足りない所だ。それをどうしたら手に入れられるかなんて知らない。努力だけで手に入れられるなら惜しまない。…けれど芸術は努力ではどうしても手に入れられない天性がモノをいう。
そう…凪は自分を知っている。
今まで自分が聴いた事のあるピアニストも山ほどいる。その中で体が、魂が震えるような演奏を聴いたのは片手にも満たないんだ。その人達でさえいつでもそんな演奏ができるかといえばそうじゃない。
ずっと凪は葛藤に囚われている。
小さい頃からピアニストに、…そう思っていた。だがずっとそう思っていたのは自分ではなくて母ではないのか?
ピアノを教えていた母のおかげでピアノはいつも凪の間近にあった。ピアニストになりたかった母…。あなたは絶対なれる。そう言い続けられ、レッスンを物心ついた時から受けていた。
毎日毎日、学校とピアノ以外何もない生活。他に何も余所見も出来なかった。何かピアノ以外のモノに凪が興味を示せば母は半狂乱のようにヒステリーを起こし、凪がピアノに向かえば落ち着く。
その為凪は何も言えない状態。父という存在もなくそれを聞いた事もなかった。
それに母親の実家も何も知らない。ずっと母と二人きりで、そしてその凪を作り上げた母はあっという間にいなくなってしまった。
世間的には、ピアノの先生としての母は評判は悪くなかったらしい。凪が大学に入った年に都心から離れ今、凪が住んでいるここに引越しピアノを教えるようになっていたけど、ここでの評判も悪くないものだった。
ピアノの先生としてならそうかもしれないが、凪にとっては複雑だ。
嫌いなわけではなかった。でも恐怖だった。
……今思えば精神的に弱い人だったのかもしれない。凪に対してだけ。
ピアニストに、を呪文の様に毎日唱えられていたのだ。
そしてその通り凪には今それ以外何もない。果たして自分の意思なのか、そうじゃないのか…そのくせ呪文を唱えていた人はまるで凪がピアニストになって安心して役目を終えたかのようにある日突然この世からいなくなってしまった。
…薄情なのだろうか…?
その時凪は脅威がなくなった、と思ってしまった。すぐに自分の中に渦巻く思いを打ち消そうとしてもどうしてもそれはなくならなかった。
ずっとずっと続く無限のループだ…。
インターホンがなったのにはっとした。
考え込んでいる間にレッスン時間になっていたらしい。
「どうぞ。今度からそのまま入ってきていいですから」
「分かりました。あ、これどうぞ」
スリッパを履きながらまた三塚 絋士はケーキの箱を凪に渡して来た。
「……すみません…けど…あの…本当にいいんですよ」
「いえ、いいです。どうぞ」
毎週持ってくる気か?恥かしくないのだろうか?自分の分じゃなければ買うのは恥かしくないのだろうか…?
いい声のいい男が毎週ケーキ買うって…。
ずい、と差し出されて凪はおずおずと受け取った。
「………ありがとうございます…」
嬉しいが申し訳ない。時折生徒の親から頂き物をする事はあるけど頻繁にあるわけじゃないのに…。
「あ、先にレッスン料を…」
「あ、はい」
袋に入れられたレッスン料を受け取り、三塚という男はこの前と同じピアノの前に座った。
「バッハ?…と?」
「……ショパン。ノクターンで」
凪の言った通りにほどほどの曲を持ってきたらしい。
「どうぞ」
先週よりも緊張が解けたのか、はたまた練習を鬼の様にしてきたのか、三塚の指は先週よりもずっと滑らかだ。きっと以前にも何度も弾いた事のある曲なのだろう。そしてやはりほとんど楽譜は見ていない。
隣の並んだピアノの前に凪も座って男の奏でるピアノを聴いた。
どちらもやはり自分でも言っている通りほどほどに出来上がっている。だがそれを言ったら凪だってほとんど変わらないのではないだろうか?凪自身も自分のピアノはほどほどだと思っているのだから…。
それでもまだ教えるところはありそうだ。それにほっとしてしまう。
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