三塚が帰った後しばらくたった頃、スプーンをとってもう冷めた雑炊を口に運んだ。
「おいしい……」
泣きたい気分になってくる。泣くなんて事はしないけど、あくまで気分がだ。
でもこれできっと三塚は来なくなるだろうし、これでいいんだ。
声と香りに酔う事もない。
レッスンだけだったら大丈夫なはず…。近づかなきゃいいんだから。
三塚は危険だ…。何が…って…凪の中をかきみだす。こんなにたった何回かのレッスンだけで凪のプライヴェートまで入って来て…。誰もそんな人などいなかったのに。
ここは凪が大学に入ってから母親が引っ越して来た地で知り合いもいない。それでよかったんだ。父親も誰か凪は知らない。親戚付き合いも誰もいない。
母親から聞いた話では母親はピアニストを夢見て実家を飛び出して来たらしい。その実家も凪は行った事もないし知らない。父親さえ知らないのだから当たり前だが…ピアノに関係のないそんな話も母から滅多に聞けるものではなくて、物心ついたころから凪を母の間にはピアノしかなかった。
余計な話をする暇があったらピアノを弾いて。練習して。…そればかり。
凪の学校の出来事など興味はなく、凪は母親にとって自分がなれなかったピアニストにさせるための分身だったのだろう。そしてこうしてピアノ以外何も出来ないロボットのような凪が出来上がったんだ。
その今までの全部をつぎ込んできた…つぎ込まされてきたピアノでさえ満足できないのはどうしてなのか。いつも先生や審査員に言われる事は決まっている。テクニックは十分だ。だが魂が籠もっていない…。
そんなのどうすればいいかなんて凪に分かるはずなかった。自分では思いを籠めながら演奏しているつもりでも評価はいつも一緒。何かが足りない、だ。
自分が天才じゃないのは分かっている。あくまで努力でここまできたんだ。
天才や才能なんて自らが望んでも手に入るものでもなく、努力で手に入れる事などできないんだ。
その結果がいつもコンクールやコンサートで前でのこの食事を受け付けなくなる状態だ。曲は弾けても自分で納得いく満足な演奏などした事がない。自分ではどおどと人を窺っているような演奏に聞こえてしまうんだ。
自信に満ち溢れた力強い演奏などとてもじゃないが出来ない。それでコンサートなど…と思っても自分にはそれしか出来る事がない。いつもいつもその繰り返し…。
凪は頭を抱えて項垂れた。
コンサート前の週。子供の生徒さんのレッスンは休みで自分の練習にあてていたが、唯一三塚のレッスンだけは息抜きになるかと思って入れたままにしていた。余計な事をしたりしなければ三塚のレッスンは楽しい。毎回ある程度曲は仕上げてくるし注意した所がすぐによくなる。それが目に見えるのが楽しいと思えた。
「………こんばんは」
火曜日三塚がやってきた。
「どうぞ」
余計な事をして、という意味を籠め、わざと雑炊の事も口にしなかった。
「これを…」
そしてまた三塚は手土産持参だった。困ると言ったのに。
「お気にせずに。失敗した分です。そういうものを人にお渡しするのは本当は俺も嫌なのですが」
「……ありがとうございます」
失敗した分という三塚の言葉にほっとする。…わざわざ作ってくれてというのは本当にどうしていいのか困るから。でもいいのに…。それでも失敗したものだという事は凪が言った事を三塚も一応気にしたという事だろう。
今日の三塚のレッスンは凪もコンサートで弾く予定のショパンのノクターンから二曲だ。
しかし本当に一週間でよく仕上げてくる。技術的にはいくらそんなに難しい曲でないとはいえ危なっかしいところはなく、音の間違いもないのだから、やはりかなりできる。
それに三塚の演奏は凪とは違って窺ったような所がない。だからといってどうだどうだ、という押し付けの演奏にもなっていないところがいい。
「……コンクールとか…出た事ある?」
音を弾き間違った所も動揺せずスルーして先に進め、曲を終わらせる三塚に質問してみた。
「一応」
「…それじゃもしかしてどこかのコンクールで一緒になった事があるのだろうか…?僕はあんまり小さい頃は出た事はなかったが…」
「…かもしれませんね。でも俺は本選までいったのはほんの数回しかないですけど」
だが出たコンクールは三塚とカブってはいなかった。なんとなく不思議な感覚だ。同じ年で男でピアノ…。そして環境が違いすぎる事に。
「俺は今は趣味でいいので」
三塚が満足そうに仄かに口元を緩めたのに目を惹かれた。こんな風に自分はピアノに対して満足を覚えた事などなかった。
少しだけ凪は苛立ちを覚えた。
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