昼過ぎてずっと病院衣を借りていたが着替えようとしてはたと気付く。
コンサート会場から運ばれてそのままだったので燕尾服だったんだ。
仕方なくシャツとスラックスだけ着用した。
着替えを頼もうにも誰も頼める人もいないのだ。
そこに三塚がやってきた。
「あ、着替え……俺戻ってとってきますか?」
「いや。いい」
まさか他人にそんな事頼めやしない。
「まぁ…車までですからいいですけどね」
「その…すまない」
「いいえ。全然。もう退院でいいんですか?よければ花束とか荷物少ないですけど持って行きますよ?」
箸とか歯ブラシとか、たった一泊やそこらの為に仕方なく売店で買った物が少しだけあった。
「……手続きがあるが…」
「あ、では荷物運んできますのでその間に退院の手続きしてて下さい。そういえば保険証とか持ってたんですか?」
「…持ってた。会場に置いてきた荷物に入れていたから…」
「じゃあ大丈夫ですね。支払いも大丈夫?」
「…多分」
「まぁ手術とかしたわけでもないでしょうからね」
三塚がささっと凪の荷物を持った。
「では俺は車に運んでくるので凪は支払いを。一階の窓口でいいですね?あと積んだらそっちに行きます」
「……あ、ああ…その…すまない…」
なんかやっぱり三塚のペースになっている気がする。
三塚は凪の燕尾服の上着も持って行きましょうと凪を促し、凪は頷くしかない。
なんで自分はこう三塚の前だと何も言えなくなるんだ?
「凪」
三塚がエレベーターの入り口に立っていた凪の後ろから耳元にそっと囁いてきてぞくりとして思わず耳を押さえた。
「お前…それ、やめろ」
そして三塚を睨んで小さく抗議する。
「何が?」
くすっと三塚が笑っている。確信犯だろ!
だがエレベーターで他の人も乗り合わせているのでそれ以上言えない。
一番初めにレッスンに来た時に耳元で囁いたら女の子は堕ちるだろうとは言った。そして三塚はした事ない、と今度試して…って言っていたけど凪は女じゃないのに!自分に向かってそれをするとはどういうつもりなんだ?
そんなの…三塚はからかっているに決まっているだろうが!
そしてふわりと三塚から甘い匂いがしてくるとまた凪の中の何かがおかしくなりそうだ。
勘弁してくれ!…どうしても動揺してしまう。
身体が痺れそうに麻痺しそうだ…声と香りに…。
ポン、とエレベーターが一階に着いた事を知らせ扉が開いたのでそそくさと先になって出た。狭い空間にいると息がつまりそうだ。
「凪、じゃあ手続きしてて」
「……分かった」
三塚が悠然と長い足で病院のロビーを歩いていく後姿を目で追った。周りの女性がちらちらと三塚をチラ見している…。背が高いしかっこいいしでそれはよく分かるけど…。ずるいじゃないか…。いや、別に凪は女性にもてたいわけでもないが…。三塚はケーキも作れて、どうやら料理もできるらしいし、ピアノも弾けて、背も高くてかっこいいし、声もよくて…気が回るし…。
凪は三塚のいい所ばかりを思って首を左右に小さく振った。
何考えているんだよ!
凪は三塚から視線を外すとくるりと踵を返して受付に行って退院手続きを済ませる。
保険証を持っていてよかった。それに手持ちもいくらか多めに財布に入れておいたので助かった。今回の倒れたことで、一人だといつどこで何が起きるか分からないのだと改めて実感してしまった事だった。
誰も手助けしてくれる人も頼れる人も凪にはいないのだ。だからといって今更誰かに頼る気もないのだが、でも三塚が…。
いやたまたま今回だけだ。居合わせたから…だ、きっと。そうじゃなければわざわざ深く知らないのにこうして迎えとかに来るはずないだろう。レッスンしてたまたまコンサートに来て凪が倒れた所を目撃したから、だ。
その前からの厚意もレッスンに来てて顔色とかが見えたからだ。きっと、三塚は優しくて親切なだけだ。そう、きっとそれだけ。
いいから、と…。放っておいてくれ、…と。拒絶すればそれまでなのに、なのにどうして凪は三塚の顔を見ると何も言えなくなってしまうのか…。
このままじゃダメな気がする。…自分が…。
学習能力がなさすぎだろう。人なんて信用しちゃいけないのに…なのにどうして信じてしまいたいと心の奥の方では思ってしまうのだろうか…。
「高比良さん?」
「え?あ、ああ、すみません」
受付の女性に声をかけられてはっとした。
「こちらに署名と…」
頭の中が余計な事ばかり考えている…。
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