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トロイメライ 33

 好きってなんだろうか?
 ケーキは好きだ。間違いなく。
 でもピアノ弾くのが好きか?と問われれば好き!と即座に答えるのが難しい。
 それと三塚の事だ…。

 三塚は好きだと…凪の事を好きだと、そう言った。それにも凪は好き、と返す事は難しい。
 ピアノも三塚も嫌いなわけじゃない。でも…何かが違うような…。
 どうも好きという言葉がピンとこない。
 三塚が晩御飯を用意してくれて向かい合わせでそれを食べて。他愛のない話をして三塚が笑っている所は好きかも…。

 声がいい所も好きだとは思う。だけど…三塚の言う好きと凪の好きの温度が違うような気がする。どこが?と問われたらきっと答えられないけれど。
 ピアノも…好きなんて軽々しく言えないような…。
 でもケーキは好きだと言える。
 何が違うのだろう?

 三塚はあの退院してきた日にこそキスされたが、後は今日みたいなさらりとしたスキンシップ位で、言葉もない。そこに安心するが、でも時折耳元に囁いてきたりとか、そういう事はする。あのいい声でそれをやられるとどうしても身体がざわついてしまうのだが…。
 自分なんかのどこがいいのか…。

 支えたいとか、ステージに向かう凪を見てとか…色々言われた事を思い出すとそれだけで顔が熱くなってくる。
 …そんな事誰にも言われた事ないから…。
 三塚が凪の事を考えてくれているのは分かる。そうじゃなきゃわざわざそう何度も来るはずもないし…。
 でも凪はそれに応える気がないのに受けるのだけは…っておかしいだろう。三塚は気にするな、と言うが、気にするに決まっている。

 本当に…凪は三塚とも誰ともそういう特別なパートナーを作る気はないんだ。
 でも…それでもいいと…三塚は…言うんだ。
 そんなの嘘だ…。きっとそのうちに飽きるだろう。今だけだきっと。きっとその内に別に好きな人が出来て凪の所には来なくなるに違いない。

 そうだ。そんな三塚の事など考えなくていい。凪は凪のしなきゃいけない事だけ考えればいいんだ。
 凪は部屋の電気を消して目を閉じた。
 次のコンサートは東京だ。その準備をもう進めないと。決まっている事は待ってはくれないのだから。


 一日中、火曜日は三塚が来るまでピアノの練習だ。
 集中しすぎていたのか昼も食べるのを忘れて無心でひたすら弾いていた。
 はっと気付けば何時間も経っていたなんて日常茶飯事で気にする事もない。

 弾けている時はその集中が切れるほうが嫌でどうしても食事よりも練習の方が優先だ。自分は天才じゃないから…弾きこんで自分のモノにするしかない。いや、それはどんな天才であろうとピアノは練習しなければ指が動かなくなる。弾きこんで弾きこんで…でもきっとステージの上で天才に敵う筈ないんだ…。

 分かっていてもそこに向かうのは何故なのか。苦しい思いをしてもそこに立つのは何故なのか。
 きっと馬鹿なのだろう。凪にはそうする事しか自分でいられる事がないんだ。ピアノがなかったらどうなっていたのだろう?自分でも見当もつかない。
 玄関の開く音に弾いていた指を止めた。

 「曲終わるまで弾いててよかったのに…」
 レッスン室に入ってきた三塚が苦笑を漏らしながら言った。
 「いや、時間だから。先週はレッスンできなくてすまなかった」
 「いえ。退院してきたばっかなんですからそれはいいです」
 「曲は仕上がった?」
 「どうでしょう?コンサートで聞いたノクターンが耳から離れなくて…でもやはり俺が弾けばどうも違う…」

 三塚が頭を捻りながら楽譜を手にピアノの前に座った。
 「一人一人音が違うんだから…同じに弾くのなんて無理だよ」
 でも三塚がそこまで凪の演奏を気に入ってくれたらしいのは嬉しい。
 息を吐き出した後にすっと息を吸って三塚が弾き始めた。
 そして凪は目を瞠る。

 三塚の弾き方が変わっていた。丁寧に情感をこめて…。急ぎ足気味だった所はなりを潜めてゆったりと。
 「すごい!いいじゃないか!どうしてこうなった?」
 「ですから!凪の聴いて…あ、いや先生の」
 「…言い直ししなくていいけど」

 くすりと思わず笑ってしまう。その三塚は褒められた事に顔を紅潮させどこか照れている様子で…ちょっと可愛い。
 自分の弾いた曲を聴いて、こんなに変わるなんて。凪は自分が演奏をする事が間違っていないと言われているように感じた。これ位人に影響を与える位の演奏を自分もしたという事だ。
 「……三塚…ありがとう…」
 凪は素直に三塚に頭を下げた。

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