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トロイメライ 139

 リハが何時までかかるか分からないので凪から電話すると三塚に言っておいたため、部屋に戻ってすぐに三塚に電話した。
 『もしもし!リハどうでした?』
 すぐに電話に出た三塚が心配そうな声で聞いてきて凪は心がふわりと温かくなる。

 「うん…。一応終わったよ。順調、というか創英がついてきてくれて…調律やり直しとかあったけどね」
 『………創英が…?大丈夫…?』
 「え?創英?うん…。やっぱ苦手は苦手だけど…最初の頃ほどじゃないよ?今日も調律もそうだけど…僕の為に…あ、いや違うか…初氏の為になるのかな…。僕が初氏の弟子という事になったみたいで」

 『そうなんだ…?で、曲の仕上がり具合は?ばっちり?体調は?具合悪くない?』
 「曲自体はね。あとは明日の調子と気分次第かな…。体調も大丈夫だよ?三塚は今日はどうだった?」
 明日になれば三塚が迎えに来てくれる…。
 携帯を耳に押し当てながら凪はベッドに横になった。

 『昨日に引き続き悪くないです。……凪…』
 「……うん」
 明日、と三塚が口にされなくても分かっている。
 「ちゃんと創英にも初氏にも立花の家を出る、って言ったよ…?」

 『何も言われなかった?』
 「ああ…。創英には鼻で笑われた」
 くすと凪も笑ってしまう。
 『…あのね…凪?』
 「何?」
 三塚の声が甘い。三塚も仕事が一段落して安心し余裕も出来たのだろう。

 『仕方ないとは思うんです』
 何が?
 『なんで創英が名前呼びで俺の事はセックスの時しか名前呼んでくれないんです?』
 「え?あ!…だ、だって…」
 かっと凪の顔が熱くなった。

 『いや、分かりますよ。初氏も立花ですからね。分かってますけど…面白くはないな。おまけにキスまでされてて…同じ家にいるというのも!』
 「それ…今更だろう…?」
 『そうですけどね。明日は覚悟しといてください。寝かせませんから。なので今日は早くに寝て、いっぱい寝ておいてください』
 「…………」

 三塚の艶を含んだ声が電話から凪の耳に響いてきてかぁっと体まで火照ってくる。
 『…凪?聞いてる?』
 「聞いてるよっ」
 体を丸めて熱が籠もってきそうなのを我慢する。
 明日の夜には三塚の腕の中に戻れるんだ。

 『じゃあ、今日はもう寝て?おやすみなさい』
 「うん……おやすみ」
 くすりと笑っているのが目に浮かぶ。
 ドキドキする。ステージも三塚にも。

 「……寝られるかな…?」
 電話が切れた後、凪は一人ごちた。
 きっと明日は夢の様な時間になるのだろう。ふわふわと現実から浮遊している感じになるのかもしれない。
 そんな事を思いながら、携帯を持っていれば三塚と繋がっているような気持ちのまま静かに眼を閉じた。


 携帯のアラームが鳴って凪は目を覚ました。
 コンサートの朝だ。カーテンを開ければ強い日差しが部屋の中に差し込んできた。9月も終盤だというのに暑そうな日だ。もうすぐ、あとちょっとで三塚が迎えに来てくれる。会える…一緒にいられる…。
 コンサートの事よりも踊りだしそうな心に凪は胸をそっと押さえた。

 たった半年やそこらで凪の人生は大きく変わってしまった。
 大事な…誰よりも大切に思える存在が出来て、しかも父という人物まで現れた。ピアノの演奏も変わって、田舎のピアニスト兼ピアノ講師からも変わろうとしていた。
 全部全てががらりと変わってしまいそう…。
 でもそれは悪い事じゃなくて全部が凪にとってはいい事だ。

 「よし!」
 珍しく気合がこもる。
 それもそうだろう。立花 初にレッスンしてもらって、桐生 明羅に曲を貰って…どれもが凪には過ぎた事だと思わなくもないけれど、でも恥をかかせちゃいけない。初氏にも桐生さんにもよかった、と思われる演奏をしないといけないのだ。
 気負ってきて緊張もする。けれど程よい緊張だ。
 あんなにコンクールやコンサートの前に倒れそうになっていた弱い凪はもういない。

 ふるっと武者震いがしてくる。
 気負っている。でもあんなに皆無だった自信が今はいくらかましになったと思えるようになった。
 狂ったように切羽詰っていた自分はもういない。
 …それも全部三塚が変えてくれたんだ。幸せな気持ちを知っている。好きと、大事と思える気持ちも知っている。そして苦しい苦い思いも、焦る気持ちも、全部今日の演奏に込めるんだ。

 高比良 凪という自分の心を。足りないといわれて来たのは心だった。
 母の所為にしてた。ずっと。だが、違う。自分が選んでステージに立つんだ。隣に並んでくれる人も自分で選んだ。人に決められるんじゃない。道を選ぶのは自分なのだから…。
 凪はぐっと自分の手を握り締め、そして指に光る指輪を撫でる。
 ……そうすると自然に顔が綻んだ。
 
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