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追憶の彼方には戻らない 62

 「…迷惑なんて…思った事ないの…」
 母親が小さく言った。
 「唯がずっと気にしているの…分かってた。私達もそうだけど…。でも迷惑なんて思っていない。でも…甘える事も唯はしなくなって…それは勿論私達のせい…ごめんね」
 母親に謝られて唯は顔を上げた。

 向かいに座る母親と視線が合わさったけれど唯はすぐに顔を俯けて首を横に振った。そして航さんの腕にしがみ付き頭も航さんの腕に押し付けた。
 航さんが反対側の手で唯の頭を優しく撫でてくれる。

 母親の前で何してるんだろうと思いながらも心が寂しさを訴えてどうにも航さんから離れられない。唯が無条件で甘えられる人は航さん以外にはいないんだ。
 今まで誰も…そんな人がいなかったから…。

 「唯は…どうしたいの…?」
 「航さんと…いたい…」
 母親の問いに唯は顔を上げる事もなく小さく唯は自己主張した。
 ただ傍にいたいだけじゃない。今はもう航さんは唯の恋人なはず。
 唯が無条件で甘えられるのもそれがあるからだ。ただ単に声が聞こえない人というだけで甘えられるはずもないんだ。
 「あの…本当に武川さんは…あの…どうして…そんなに…?」

 「…唯くんに初めて会ったのはもう一ヶ月も前です。電車で気分を悪くしたのか駅で蹲っていた所に声をかけました。事件の聞き込みでちょうど俺も駅にいたので。気分を悪くしたのは犯人の声を聞いたからだったのですが、唯くんは自分の中にそれを押さえてました。その後、唯くんは自分がどう思われるのかを危惧しながらも自分の事と犯人の事を教えてくれました。たまたま俺が唯くんの同級生の叔父だったという事もあったとは思いますが…」

 航さんが言葉を途切れさせた。
 
 「唯くんを尊敬します。これは一緒に唯くんから話を聞いた俺の同僚もそう思っています。…たまたまか特別か俺には分かりませんが唯くんが今までで唯一俺の声が聞こえないという事が唯くんの存在を特別に俺も感じました。唯くんから話を聞いて…親御さんに複雑な思いを持っている事もわかりました。唯くんはいい子でそこに親御さんの愛情があるのも分かりますし、本人もそれをちゃんと感じている。だから唯くんは人を気遣えるいい子に育ったのだと思います。でも反対に気遣いすぎる…。自分さえ我慢すれば、そう思っているのも見えて…」

 そんな風に航さんが思っていたんだと唯は顔を上げて航さんの横顔をじっと見つめた。
 「甥で唯くんと同級生の唯くんが泊まっていた家の武川 光流もね、唯くんの秘密を知っています。それでも唯くんに対する態度は変わっていません。むしろもっと仲良くなりたいと思っているのに唯くんは自分が声が聞こえるからと固辞している感じです。…そんな唯くんが少しでも…声が聞こえない俺にだったら気兼ねなくいられるのかと…そして俺も唯くんが少しでも普通に過ごせるのなら、と…そう思いました。ご両親から唯くんを取り上げるとかそんなつもりはありません。ただ唯くんのいいようにしてやりたい…そう思っただけです」

 泣きそうになってくる。
 泣くなんてそんな恥ずかしい事したくないので我慢するけれど、航さんが唯の事を大事に思ってくれているのが伝わってきてじんと心が痺れそうだ。
 「…主人と相談します」
 航さんがあごを引くのを感じた。

 「急いでいるわけでもないので…。もし不安などがあったらいつでも電話してください」
 「……武川さんにはずっと唯の様子を教えていただいたり…感謝してます」
 ずっと…?
 唯が航さんをじっと見ると航さんが唯の方を見てくすりと笑った。
 「勿論毎日唯の様子を報告していたよ」
 「…え?」

 そうなんだ…知らなかった、と唯はちょっと恥かしくなった。いったい何を言われていたのだろう?
 「唯とは話す事もあまりなかったから…」
 ちらっと母親を見れば悲しそうな顔で笑みを浮かべていた。
 母親にそんな顔をさせているのは自分の所為なのだろう。

 「心配してくれてるの…分かってる。でもちょっと怖がってるのも分かってる。当然だと思ってるよ…。そして僕もちょっと怖いんだ…。でも航さんは怖くない…普通でいられるんだ…」
 母親の顔は見られないけれど自分の思いを告げた。恐ろしいの怖いじゃない事は分かってもらえるはず。

 でももう唯の心の中は決まっている。親に反対されようが航さんは迷惑だろうけどもう航さんの所に行く事しか考えてなかった。 
 
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