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追憶の彼方には戻らない 73

 「上がりました。航さんも…?」
 「ああ、行ってくる。その前に唯おいで」
 航さんがドライヤーを手に唯においでと手を振って唯は航さんの座ってる前の床にぺたんと座ると航さんは唯の髪をドライヤーで乾かしてくれた。

 ちょっと長めの髪はやぼったいといっていいかもしれないけれど、あまり目立ちたくない唯にとってはこれが普通だった。
 それでも光流にも可愛いとか綺麗とか言われるけど、そんなの全然嬉しくない。
 「髪柔らかいな…」
 「え?そう…?」
 ちょっとくせっ毛な髪は寝ぐせがつきやすい。

 「そういや学校は弁当だったな…」
 「いいです。パンでも買う。慣れたら自分で弁当作るようにする」
 「俺が作って…」
 「いらない。航さんの負担になるのは嫌」
 唯がきっぱりと断ると航さんが苦笑した。

 「義姉さんに頼むか?」
 「いらない。自分でちゃんとする」
 「……しっかりしてるんだよなぁ。俺はぐだぐだに唯を甘やかせたいのに…」
 航さんがドライヤーを止めて唯を後ろから抱きしめてきた。
 どくんと心臓が大きく脈打った。

 …こんな風にしてもらえるだけで嬉しい…。
 それは本当の事だ。
 「冷食とかも買っていいんだぞ?そうしたら弁当作るのも楽だろうし」
 「……うん。明日学校の帰りに買ってくる」
 お弁当作りの本も買ってこようと唯は買うものを心の中で追加した。

 「明日は久しぶりの学校だけど…大丈夫か?色々聞かれたりとか…」
 「それも多分総体挟んだし大丈夫だと思う。あんまり僕話さないし、ちょっと話すのは前の席の加藤っていうやつだけ。光流はクラスも違うから」
 「かえって光流が別のクラスでよかったな」
 「うん」

 唯が頷くと航さんがぷっと笑った。
 「じゃ俺は風呂行ってくる。唯寝るんだったらベッド行ってなさい」
 航さんはやっぱりキスしてくれないらしい。
 「……うん」

 航さんのベッド?自分のベッド?
 聞きたかったけれど自分のベッドに行きなさいと言われるのが嫌で聞かなかった。
 航さんがお風呂場に消えた隙に唯はついていたテレビを消して航さんの寝室に向かった。
 「お邪魔します…」
 そっとドアを開けて部屋に入った。

 ベッドの持ち主がいないのに、と思いながらもさっさと入っちゃえ!と唯はそそくさとベッドの端に体を入れた。こうしてたら航さんは唯を追い出す事はしないはず。そんなずるい考えと確信を持ちながら航さんのベッドに陣取った。
 「だって…航さんも言ってたもん」
 言い訳がましく呟いた。
 眠いのに眠くない。
 でも顔を出しておくのが恥かしくて布団の中に顔を隠した。

 お風呂から上がってきた航さんはどう思うだろう?勝手に入って、と思うだろうか?
 「唯?…寝た?」
 色々ぐちゃぐちゃと考えていたら航さんの声がすぐ傍から聞こえた。どうやらもうお風呂から上がってきたらしい。寝てないと布団を被ったまま首を横に振ると唯が眠っていない事を分かったのが航さんがベッドにの端にぎしっと腰掛けた気配がした。

 そっと布団から唯は顔を出した。
 「…勝手に…入って…」
 「いいよ。一緒にって言ってただろう?」
 くすりと航さんが笑みを浮べた。
 「自分の部屋の方にいたらこっちに連れてくるつもりだったし」

 航さんの手が唯の髪を梳いた。
 それが気持ちよくて目を閉じてしまう。
 でもやっぱり航さんはキスをしてくれる気配がない。
 「あ、の…」
 「ん?」

 キスしたい、なんて言ったら航さんは呆れるだろうか…?
 「リビングの電気消してくる」
 航さんが立ち上がって行ってしまった事が残念で、そしてちょっとだけほっとしたのは緊張していたせいだろう。
 でもすぐに航さんが戻って来て、今度はベッドに入ってきた。
 「唯、そんな端っこにいないでもっとこっちおいで」

 航さんに言われてもぞもぞと布団の中で移動して航さんに近づいた。心臓がものすごくうるさくどきどきしている。
 恥ずかしいは恥ずかしいので顔は布団の中に入ったままだ。
 近づくと航さんの腕が唯の体を捕まえた。そしてまたさらに心臓が大きくどくどくと主張をはじめる。

 心臓は壊れているかのようで苦しいかも…。
 でも病気じゃないのは分かってる。航さんが傍にいるから、だ。
 航さんの腕の中に納まるように抱かれたけれど、待っても待ってもそれだけでキスの気配はなさそうだ。
 どうしようと思いながら唯はそっと布団の中から抜け出し航さんの腕の中から航さんの顔を見た。
 
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