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追憶の彼方には戻らない 87

 「唯…」
 はぁ、と航さんが大きく溜息を吐き出した。
 「言えない事なのか?」
 そうじゃない。
 唯は顔を俯けたまま首を横にふるだけしかできない。
 唯が自分の事しか考えていないから…。

 「…航さんに…嫌われたくない…」
 「嫌うはずないだろう」
 はぁと航さんがもう一度溜息を吐き出すと今度はそっと唯の体を引き寄せて抱きしめられた。
 「唯が言ってくれないとどうしていいか分からないんだ。何かを聞いたは間違いないんだろう?」
 それにも肯定も出来なくて唯はそっと手を航さんの背中に回してTシャツを掴んだ。

 「…僕が…嫌なやつなだけ…」
 「ないね」
 航さんが即座に否定する。
 「そんなわけあるか。こんなにいい子がいるのか?って思う位だ」
 「いい子じゃない。…いい子のふりしてるだけ」

 小さい頃からそうだ。人から変に思われないようにと気をつけるようになってからは特に真面目にいい子に見えるように気を遣った。注目を浴びない程度にだ。
 「そんな事ない。人を気遣えるいい子だよ。自分の事よりも親御さんの事を気にして、人を気にしている。光流に触らないのだって光流を気にしてだろう?」

 「…違うよ。光流に嫌われるのが嫌だから…」
 航さんは唯をいい風に見すぎている。唯が触れないのは自分に向けられる嫌な言葉を聞きたくないからなのに。

 「亜矢加は唯の力の事は知らないし俺も勿論言う気もない。ここで唯が俺に言ってもそれを誰かに言うつもりも当然ない。そもそも唯が何かを気にしているのでなければ問う事だってしない。ただ、唯がそんな風に一人で抱えているようだから問い詰めるだけだ。言うまでは放さないから覚悟しなさい。全部自分で抱え込まなくていい。…何を言ってたんだ?唯の事か?」
 違う、と唯は首を横に振った。

 「…俺の事?」
 航さんの言葉にびくんと唯はつい体を反応させてしまった。
 「……付き合ってた、か?」
 航さんの口からそんな言葉で出てきて唯は泣きたくなってきた。やっぱりそうなんだ…。どこかで航さんには否定して欲しくていたんだ。それは違う、と。でもやっぱりそうなんだ。

 一緒に唯はこうして航さんといるけれどそれはおままごとのようなもので付き合ってると堂々と言えるものじゃない。
 男だって事もある。航さんは優しいけど唯を同等に扱っているわけでもない。いい子というのだってもうそこからして唯が子どもだって言っているようなものじゃないか。
 子どもだけど、航さんから見たら本当にただのガキにしか見えないだろうけど、そう見てほしくはないんだ。

 「いい子じゃない……」
 「……いい子って言われるのは嫌か?」
 違う!嫌なんかじゃない…。
 唯が首を横に振ると航さんがぎゅっと唯をさらに力を入れて抱きしめてくれた。

 「ごめ…な…さい……ぐちゃぐちゃ…」
 我慢してるのに泣けてきそうだ。
 「我慢しなくていいから…ちゃんと言って。唯」
 航さんが耳に囁いてちゅっとキスしてきた。
 「亜矢加が何を思っていた?」

 亜矢加なんて名前も呼んで欲しくない…そんな事を唯が思ってるなんて航さんは知らない。
 「…違う…」
 亜矢加さんが、じゃないんだ。唯が勝手に拗ねていじけてるだけなんだ。
 「唯…俺が今一番大事に思っているのは唯だけだ。唯が言わないなら亜矢加に問い詰めよう」
 「やだっ」
 ぎゅっと航さんのTシャツを掴む手に力を入れた。

 「やだ…」
 「…じゃあ言って。絶対聞き出すからな」
 航さんが有無を言わせない声音でそう言った。
 「…嫌で…別れたんじゃないって…」
 「まぁ、そうだな」
 航さんが簡単に肯定した。

 「でも別れ話は向こうからされたぞ?」
 …そうなんだ?でも亜矢加さんはまだ航さんの事を好きだと思う。
 「仕事も忙しかったし、互いに仕事が一番だったからな。付き合ってた期間は少しは長かったが頻繁にプライヴェートで会ってるわけでもなかった」
 航さんの胸に顔を埋めたまま航さんの言葉を聞いていた。

 「さばさばして付き合いやすかったからじゃあ付き合おうか、って事になったんだ。互いに好きとかそういうのではなかった」
 違う。それは航さんだけだ。きっと…。

 「唯…全然違うんだ。…信じられないかもしれないけど…」
 やっぱり泣きたい気分だ。でも泣いちゃったりしたらきっと航さんは困るだけだし、泣くのは子どもの証拠のような気がして唯は必死に歯を噛み締めて我慢した。
 
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