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追憶の彼方から放されたい 86

 「早く決めたまえよ?男の情報を教えたのは私なのだから優先してくれてもいいと思うのだがね?」
 「まだですよ。こっちも都合があるんです。何しろ切羽詰っているもので」
 「だったら早くに決めればいいだろう?」
 「そうもいかないんですよ。どこから聞いたのかまだ声掛かりをいただいているので。でもそうですね…金額が一緒だったら優先いたしますよ」

 「本当かね?」
 はっはっはっ、という薄ら寒い笑い声にぞっとする。
 しかしそんな所を見せるものか、とまだ捕まれていた顎の手をびしりと克巳は手で払った。
 「これは手を噛まれそうだな」
 ひくりと議員の顔が克巳を見てひくついた。

 「しつけは手こずりそうだ」
 「いやいや大丈夫でしょう。…番犬の事がどうなってもいいのかい?」
 舌なめずりしそうな声で副警視総監が克巳の耳元に囁いた。
 尾崎が…って事か…。
 「明日にでも何か不祥事を起こしてもいいんだぞ?んん?くれぐれもおとなしく従順にしておくのが得策だと思うけどねぇ?」

 克巳はくっと唇を噛んだ。
 「傷はつけないで下さいよ?まだあなた方に決まったわけじゃないんですから」
 向い側から雅彦が酷薄な笑みを浮かべて克巳を冷たい目で見ていた。
 「値を吊り上げようなんて悪知恵ばかり働くネズミだな…。でもまぁそれもいい。楽しみに連絡を待つとしよう」
 お開きになったのか3人が立ち上がるとさっさとオッサン二人は店を出て行き雅彦だけが残った。

 「克巳?伯父さんにも警察にもくれぐれも漏らさないように。分かっているよね?」
 雅彦がくすくすと笑いながら克巳の耳元に小さく囁いた。
 「また連絡するよ。今日はもういいよ?くれぐれもここの事は内密に。君は知らないだろうけれど、ここに出入りするのは裏に力を持っている人ばかりだからね。一言でもバラしたらどうなるか知らないよ?ああ、支払いも君には発生しないから気にしなくていいし帰っていい。じゃあまた連絡する」

 ぎり、と克巳が雅彦を睨むとそそくさと克巳から逃げるように出て行き、克巳も立ち上がると預けていた荷物を受け取って店を出た。
 荷物を返してもらえないんじゃないかとも思ったがすんなりと返してもらってほっとしながらエレベーターに乗り込んだ。
 後ろからまたのご来店をお待ちしておりますなどという慇懃な挨拶が聞こえてきて苛立った。
 エレベーターに乗り、すぐに返してもらったバッグから携帯を取り出して見るとマナーモードにしていた携帯には尾崎から電話がかかってきていた。

 …何回も。
 エレベーターが一階に着き、ビルの外に出ると歩きながらすぐに尾崎にかけ直した。
 『克巳!今どこです!?』
 「…外」
 慌てた尾崎の声とそして盛大な溜息が聞こえてきた。
 『何もない?電話に出ないから…』
 「…ないよ」

 自分が情けなく泣きたい気分だ。
 自分は尾崎の邪魔でしかないのではなかろうか?
 「尾崎は?忙しい…?今日も帰ってこられないのか?」
 『……ええ。無理そうです』
 尾崎の声が固い気がする。

 『…克巳…何かありました?』
 克巳の声色が震えそうになっているのに気付いたのだろうか…。
 「いや別に…何もない。…何もないけど…尾崎の部屋に行っていい…か?」
 『…いいですよ?勿論。俺はちょっと帰られそうにないのですけど…。明日の朝位には着替えをしにはちょっと戻るかもしれませんが』

 「じゃあ…待っててもいいか?」
 『…ええ』
 尾崎はあまり歓迎しているようではない声色だったがそこに克巳は気づかないふりをした。
 「今から行く事にする」
 『…分かりました。本当に何もない?』
 「ないよ。じゃ」

 『…気をつけて。何かあったらすぐに連絡入れてください。あ、ウチに着いたら着いたと電話入れてくださいね』
 「…分かった」
 過保護な尾崎の言葉に笑いそうになるが笑えない。反対に泣きたくなってくる気持ちが強くなってくる。
 別に何もあったわけでもない。だが情けない。自分では尾崎を守る事は出来ないんだ。かえって自分が尾崎の立場を危うくしてるのか…。

 今あった事も自分で尾崎を守れるならそれでいい、いいが…尾崎を裏切っている気持ちになってくる。
 言ったら尾崎は動いてくれるかもしれないが尾崎の足元を崩してしまうだろう。そうなったら…。
 尾崎には言えない。
 克巳は尾崎の部屋に向かうべく足早に駅に向かった。
 
 
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