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追憶の彼方から放されたい 89

 だからといって尾崎に話す訳にはいかない。
 もし知られたら…。
 克巳はずっと一人、尾崎のベッドに入ったままぐだぐだと考え込んでいた。
 何もせず、着替えすらせずにただずっと。
 だがそうもいかなかったのはまた電話が鳴ったからだ。

 『今日も同じ時間に昨日の店にね。誰にも言ってないね?君の彼氏君は見当違いの所を聞き込みしてるみたいだし』
 尾崎を探らせてでもいるのだろうか…?
 雅彦はけたけたと笑い声を上げながらそんな事を言った。
 「…言ってない」
 『利口だねぇ。言っても無駄だって分かってるんだ?それでいいよ。じゃ』

 用件だけで電話はすぐに切れた。
 克巳は一度帰って着替えないと…、とのろのろと尾崎のベッドから起き上がった。
 
 手に持った電話をそのまま尾崎にかけると留守電につながった。どうやら出られない状態らしい。
 「…ウチに帰る」
 他に言いようもなくてたった一言だけ入れて電話を切った。
 隠し事をしているのが後ろめたい。それでも尾崎の為ならなんでもいい、と克巳はさっさと着替えて尾崎の部屋を後にした。
 
 今日も雅彦と出かけてくる、と家政婦に告げ克巳は昨日と同じ時間に家を出た。
 足が重い。
 そういえば今日は何も食べていなかったな、とどうでもいいような事を思い出した。昨夜の食べていないから丸一日何も口にしていないのか。
 思い出す事さえもどうでもいいように思えてくる。

 尾崎からのレスがない。
 忙しいのかそれとも克巳に愛想をつかしたのか…?
 身体に残された刻印だけがそうじゃないという証明に思えてならない。だったらこれが消えたらどうなってしまうのだろうか…?
 痕が消えたら尾崎も消える…?

 何となく今朝の尾崎の様子に悪い事ばかりが克巳の頭を過ぎってしまう。
 あんな苛立った尾崎は初めて見た。
 自分を持て余して壁を叩くとこなんて…。いつもどんな時でも飄々として薄笑いを浮かべているのに。
 でも克巳を欲しいと尾崎の雄は主張していた。克巳だって欲しいと思っていた。

 …なのに尾崎はそれを抑え克巳を放置して行ってしまった。
 どうして悪い方にばかり考えが向くのだろう?
 仕事だと言ってただろう?車で同僚が待っていたんだと思う。そう考えるのが普通だ。頭では分かっている。それなのにどこか鬱屈とした表情を見せていた尾崎が怖かった。

 最初は胡散臭いと思ってたし、別に存在など気にした事なかったのに、今は尾崎の目線一つでも怖いと思う。
 克巳が人とは違う力を持っていて、それを見せても尾崎はいつも変わらなかったのに、今朝は違った。それがこんなに恐怖に感じるなんて。
 時間が経てば経つほど恐怖が増していくようだった。
 電話も返してくれないほど嫌になったのだろうか…?
 女々しくもそんな事まで考えてしまう始末だ。

 いくら違う、と打ち消しても勝手に自分の中で悪い方へと考えが向かっていってしまう。
 「…やめよう」
 一人で考えても仕方のない事だ。もし尾崎に呆れられたのなら…嫌われたのなら諦めるしかないだろう。
 マイナス方向にしかいなかい思考に終止符を打ち昨日と同じ時間、同じ店に向かって克巳は足をただ無機質に動かした。

 別に克巳は行きたくもない。本当は。回れ右して帰りたい。でも…たとえ尾崎にいらないと思われようと自分のせいで尾崎が警察を辞めさせられる事になるような事はしたくなかった。
 かえって尾崎に呆れられたのならその方がいいんじゃないのか?なんて危険な考えまで浮かんできそうだ。だったらペットにされようが抱かれようが尾崎が相手じゃないならどれも同じだ。
 誰に触れられても尾崎以外は気色悪いだけなのだから。

 だから…そういう自暴自棄な考え方をやめようと思ったのにまた元に戻っている。
 「はぁ…」
 昨日来た店の入っているビルの前で深く克巳は溜息を吐き出し、それから息を飲み込むと足を中に踏み入れた。
 尾崎を守るのだ。自分が。迷惑になんかなるな。

 そう自分に言い聞かせ、今までの一人で出口のない迷路をグルグルしていたように青くなっていただろう顔をぱん、と両手で頬を叩いた。
 気合入れろ。
 尾崎の為じゃなくてこれは自分の為なんだ。自分が尾崎を守るんだと決めたのだから。
 
 
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