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追憶の彼方から放されたい 92

 「あの…?」
 無言のまま連れていかれたのはホテルだった。
 ホテルの駐車場に直接尾崎は車を入れてそのままエレベーターで上まで昇っていく。
 克巳は腕をきついほど捕まれていた。

 尾崎が無言で克巳の顔も見ないで苛立っているようで、何も言えずに克巳もただ黙って尾崎に引っ張られるままついていった。
 ある一室の前までくるとカードキーでドアを開ける。
 「おかえりー。お?無事奪還?」
 「全然。まだだ」
 見知らぬ人が部屋で一人テレビを見ながら待っていた。

 「君が仔猫ちゃんか。よろしく。ああ、西岡から面白かったって電話がきたぞ?」
 「おもしろくねぇ」
 尾崎はサングラスを外し白いスーツを脱いでいく。
 「ったく趣味悪ぃスーツだなおい」
 「ほっとけ」
 誰?と克巳は呆然としたまま立ち尽くしていた。

 尾崎はスーツを脱いでパンツ一枚になり、頭をぐしゃぐしゃとかいて今度は電話を手に取った。
 「尾崎です。はい、今ホテルに着きました。尾行なしのようです。…はい。了解しました」
 これは仕事の電話だろうか。そして切るとまた電話をかけ始めた。
 「尾崎です。…はい無事です。……では明日お送りします。……いえ、はい、失礼致します」
 これは誰にだろうか…?
 そして今度は電話がかかってきた。

 「はい。…ああ、無理言って悪かった。…いや…ああ、一緒だ。また頼む。……ああ?うるせぇぞ」
 「西岡か?代われ」
 見知らぬ人がにやにやしながら尾崎に手を伸ばしていると尾崎が携帯を見知らぬ人にポンと投げた。
 「おお!仔猫ちゃんもいるぞ。きょとんとして可愛いな。…ああ?そうなの?ふぅん……尾崎は何も言わないからな。また聞かせてくれ。…ああ、じゃ」
 見知らぬ人が尾崎の携帯を切ると尾崎に携帯を返す。

 「克巳」
 尾崎に呼ばれて状況が分からずドアの前に立ち尽くしていた克巳はびくりと体を揺らした。
 「こっちにおいで」
 口調は幾分柔らかくなったが声がまだ固い。けれど、言われる通りにおずおずと尾崎の方に近づいていった。
 尾崎はパンツ姿のままでソファに座っていて、克巳が近づくと反対に見知らぬ人がソファからテレビを消して立ち上がった。

 「じゃ、行くわ」
 「ああ、悪かった。また頼む」
 「了解。じゃね、仔猫ちゃん」
 ポンと克巳の肩を叩いて見知らぬ人が尾崎の脱いだスーツを持って出て行ってしまう。
 「座って」
 尾崎に静かに言われて尾崎から離れて克巳は小さくなってソファに座った。

 何から聞けばいいのか、何から話せばいいのか分からない。
 しゅんと小さくなっていると尾崎がはぁと大きく溜息を吐き出した。
 「…………何か言う事は?」
 言う事…?
 「……ごめ…なさ、い…」
 尾崎がもう一度大きく息を吐き出した。

 「……おいで」
 広いホテルの部屋はスウィートまではいかなくともいい部屋だ。広くてソファセットも大きい。べッドまでも距離がある。
 3人掛けソファの端の方に座った克巳の体を尾崎が引き寄せた。
 「ごめ…」
 尾崎の腕に安心して緊張の糸が切れたようにぶわっと目に涙が浮かんできた。
 「尾崎……」
 怖かったんだ。自分がどうなるのか全然分からなくて。

 「もう…大丈夫」
 尾崎の首に抱きつくと尾崎は克巳を抱きしめ背中をあやすように撫でてくれた。

 誰かに縋って涙を流すなんて初めてだった。赤んぼの頃はあったのかもしれないけれどそんなの克巳は覚えておらず、物心ついた頃に自分は異質なんだと肌で感じたのか必要以上に自分を抑えていた気がする。
 喜怒哀楽を出さないようにしてじっと我慢していたのかもしれない。自分がじゃなくて、母親とかまで自分に向けられるような視線を向けられるのでは、と思っていたのかもしれないが、もう自分でも気づいた時には愛想のない子供になっていた。

 誰かの前で泣くなんて事…。
 声を押し殺し唇を噛んで必死に零れ落ちる雫を止め様としてもなかなか止まらない。
 尾崎の体温が温かく克巳を包む所為だ。
 こんなに誰かの存在に安心した事などなかったからだ。

 しばらく尾崎にしがみついてただ克巳は静かに涙した。尾崎は何も言わずに克巳のしたいようにさせ、広い胸を貸してくれ、子供の様に縋る克巳の背を撫でてくれる。
 克巳が落ち着くまで尾崎は静かにそうしてくれていた。
 
 
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