莉央が客席の方で脚立に跨ったりしながら動いているのに何故か安心を覚えた。
きっと人の気配がするからだ。
綾世も客席で書き物をしている。
バイトのシフト表、売上表、支出の計算、予想収入、在庫管理、…もうやる事は山積みだ。
そんな中で綾世は一人でずっと気を張っていたんだと思う。
あったのは焦燥感ばかり。
大丈夫だろうか、出来るか、やらないと、そんな焦りばかりを感じて余裕がなかった。
それが薄れた。
料理を誉められ、満足した顔を見れば間違ってなかったと思えた。
店に一人でいるとまるで本当に世界に一人だけ取り残されたような気持ちだった。
それが今はない…。
莉央の心遣いの気持ちを貰ったからか綾世の心の中が今までにない充足感を覚えていた。
ダメだ、と自分を止める。
またあんな目に合いたいのか?
自分で自分を諌める。
弱っている心にちょっとの優しさがきっと染み込んだだけだ。
なるべく気にしないようにと思いながらもどうしたって気になってしまう。
調子がいいのか莉央から鼻歌まで飛び出してきて思わず綾世は声を立てて笑いが漏れてしまった。
「あ、……うるさい…すか?」
「いや…」
くすくすと笑ってしまう。
まだ笑える自分に驚きだ。
人は案外強いものなんだな、と実感した。
「僕は焦るばかりだったけど、君は楽しそうで何よりだ」
「楽しいですよぉ。新しい店に俺が一役買ってるなんて、そりゃあもう!それに俺こういうのわりと好きだし。綾世さんも楽しまないと!ずっと眉間に皺よってますよ?」
綾世は思わず自分の眉間を指で摩った。
そうかもしれない…。
「そうか…そうだな……」
本当なら自分の店、となったらきっと希望に満ち溢れているのかもしれない。綾世だってほんの数年前はそうだった。
あの時と同じような気持ちにはなれないけれど、確かにもう少し楽しんでもいいのかもしれない。
何といってもここは綾世だけの店だ。
前とは違う。
綾世が顔を俯き加減で考え込んでいると莉央が脚立の上から伺う様に綾世を見ていた。
「……何かあったら抱え込まないで言って下さいね?力になれるかどうか分かりませんけど、ここまで手伝ったら何となく人事じゃないですから」
「……ありがとう」
素直に礼が言える。
何かがある事は察知しているだろうけれど莉央はそれを聞き出す事はしない。
それが心地いい。
まだ綾世の心の傷は膿んでいる。
やがて癒える時はくるのだろうか?
思い出しかけた男の顔を追い払うように綾世は頭を振った。
そして莉央を見る。
暑くなったのかシャツを脱いでTシャツ姿になっていた。
筋肉の張った腕…。自分の白い細い腕を思い出すと嫌になってくる。
人のコンプレックスを刺激する嫌なヤツだな、と莉央から視線を外して綾世は仕事の続きの為に再びペンを走らせた。傍らには電卓。
今はまだ予定、予想しか出来ない事だが、それでもそれを考えておかなければ先は困る。
今は9月。開店は再来週の金曜だ。
…なるようにしかならないだろうけれど。
早く来て欲しい気持ちと来なくていい、という気持ちは半々だ。
「どうです?」
得意気に莉央が脚立を片付けながら声をかけてきたのに客席全体を見渡した。
木のテーブルと椅子。上の棚に小さなボトルが並んで、レジのカウンターにも小さなイタリアの国旗。
何となく閑散とした感じだったのが一気に店らしくなった。
「いいんじゃないか?」
「ですよね!お店って感じになった」
感じた事は同じだったらしい。
試食用にと買っていた食材で昼の分を作り食べる。
いつも自分だけなら食べないでいるけれど莉央がいたのでいくらかは口にした。
パスタは午後届く予定なので夜だな、とパスタに莉央がどんな反応をするかと綾世は楽しみになる。
今までの分を美味いと言ってくれているならきっとまたあの満足そうな顔がみられるんじゃないか?と期待してしまう。
…これは料理に対しての期待だから、と綾世は自分に言い訳する。
そして自分に言い訳している時点ですでにもう遅いんじゃないのか、とも思ってしまったのは考えないことにした。
テーマ : 自作BL小説
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