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熱抱擁 angoscia~不安~1

 「今日からよろしくお願い致します。宇多 瑞希です」

 瑞希は宗の会社に初めての出社だ。
 見慣れた顔が並んでいるけれどそれはそれ。あくまで自分は新参者だ。
 深く頭を下げ挨拶する。
 有給を使って何回か顔を出していたのでいくらか勝手は分かるけれど、しばらくは宗と坂下の下で教えてもらいながら、になるだろう。
 
 瑞希の机は元々会社設立の時から用意されていて、やっと本当にここに座ることが出来るようになったと思えば感慨深い。
 思わずしんみりとしていると川崎 恵理子が声をかけてきた。

 「宇多さん、よろしくね」
 「…こちらこそ。新参者だけど…」
 「ああん!そんな事いいの!今まで二階堂君のガードがきつくてろくろく話も出来なかったけど…」

 「川崎 恵理子」
 宗の声。
 「ひ…ホラ来た~…。ほんと狭い男だよね」
 瑞希はどう対処していいか分からなくて思わず宗を見た。
 「アレの相手はしなくてよろしい。仕事の話なら許す」
 瑞希は苦笑を浮べる。
 何度か恵理子に貰った事のある小冊子は封を開けられることもないまま瑞希の着替えの置いてある部屋で眠っている。

 宗、と呼び捨てで呼ぶ事は表では出来ない。
 ここのフロアにいる人だけの時なら可能だけれどここの人達の部下がいつ来てもおかしくない中で宗、とは呼べないだろう。
 社長、というとどうしても宗のお父さんが浮かんでしまうからCEOか。
 …うん、気を張るという点ではその方がいいかもしれない。
 うっかり、が出ないようにしないと、と瑞希は心の中で意気込んだ。
 
 「宗さん、宇多くん連れて挨拶回りでも。CIOになればこれから各会社のトップと会う事が多くなりますから。二階堂商事の宇多ではなくなった事を知らせるためにも」
 「………」
 嫌だ、という表情を全面に出して宗が顔を顰める。
 坂下が頭を抱えた。
 「公私混同はやめてください」
 すると宗が今度はチッと舌打ちだ。
 何がそんなに嫌なのだろうか?瑞希がそんな器にないからか?

 「宇多くん…本当に頼りにしてますから…」
 坂下ががしっと瑞希の肩に手を置いた。
 「はぁ…」
 「仕方ない。瑞希、行くぞ」
 「あ、はい」
 貰ったばかりの新しい名刺を手に瑞希は宗の後ろをついていった。
 
 「半分位は瑞希も行った事あるところだと思うけど…。そうだな、確かに親父のとこじゃなくて、と知らせる必要はあるか」
 宗は瑞希の運転する車で瑞希をちろりと見る。
 「アポ取ってるわけじゃないからまぁ、本当に挨拶程度だ」
 「はい」
 そして宗がむっとした顔をした。

 「瑞希?」
 「はい、何でしょう?というか、名前呼びはいけないと思いますが?」
 「………その話し方、面白くない」
 「面白い、面白くないという問題じゃないでしょう。それでなくても俺は宗と一緒だと気が抜けやすいから。ちゃんとしないと素が出てきてしまう。仕事の時は一貫して仕事モードにしますから。CEO。…でいいですか?社長、と呼ぶとお父さんのようで…」
 「ああ、いいよ。分かった。でも俺は他人がいない限り瑞希って呼ぶから。瑞希って名前が好きだ。お前に合っているからな」

 え…?
 助手席に乗っている宗を見ると宗がじっと瑞希を見ていた。
 「…宇多、は本当の瑞希のものじゃない、だろう?でも瑞希は瑞希だけの名だ。よく合ってると思う」
 そんな風に宗が思っていたなんて知らなかった。
 「ありがとう…嬉しい……」
 「瑞希くん?それ素だよ?」
 はっとして瑞希が表情を引き締めれば宗がくつくつと笑っている。
 「やっぱり面白くないわけないな…。瑞希…」

 ダメだ、やっぱり宗が相手だと気持ちが緩んでしまう。
 それだけ安心してしまっているという事なんだろうけれど。
 「ああ…皆、名前にくんつけて呼ぶようにすればいいかな。そしたら瑞希くんでいいし。坂下はさすがに無理だけど。恵理子くん、とか……いや、やっぱ無理だ。気持ち悪ぃ…」
 宗が一人でぶつぶつ言ってるのが可笑しくて笑ってしまう。
 そしてやっぱり宗は瑞希の事をよく分かってくれていると思う。
 名無しの自分に与えられた名だ。苗字は他人の物。でも確かに名前は瑞希だけの物。
 宗はいつも瑞希が喜ぶような事をさらりと言ってくれる。
 だからずっと宗が好きなんだ。
 瑞希はふっと表情を緩めた。 
 
 

テーマ : BL小説
ジャンル : 小説・文学

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