実家の自分の部屋にいても落ち着かない。
ここを出てまだ半年も経っていないはずなのにあのマンションが遥冬の帰る場所になっていた。
……いや違う。
尚の傍が、か…。
畳の部屋でじっと遥冬は小さなテーブルの前で正座をして動かず、ただ携帯を握り締めていた。
迎えに来て、と尚に連絡したら来てくれるのだろうか?
何でも望みを言え、と叶える、と尚は何度も言ってくれていた。
覚えておけ、と。
この携帯で繋がる手段だけが遥冬の心の支えだった。
とにかく実家では遥冬は不必要に部屋から出ない。
広い昔からの家に増築された離れのような部屋が遥冬の部屋だった。
それでもまるきり離れているわけではないのでうろつけば誰かと会う可能性はある。
それは家の者に限らない。
使用人をも使っているし、父か義母が在宅していれば客が来る事も多いのだ。
一度だって遥冬は男を誘ったことも、抱かれた事もない。
それは尚にしただけだ。
なのに中学の頃にはもう男を咥え込んでいると近隣には知れ渡っていた。
してもいないのに知れ渡る。
おかしな話だが、一度出た噂は田舎ではあたかも事実のように話され、挙句に誘われたとか言い出すヤツまでいる始末だ。
そうなればもう噂は事実として話され、さらに飛躍していく。
別にそれで遥冬がどう変わるわけでもないのでいちいち否定することなく放ってきた事だ。。
実際問題として噂を聞き、誘ってくる馬鹿もいたが、大抵は父の名を出せばすごすごと逃げ去るような小さいものしかいなかった。
ヤったら父親に言いつけてやる、と言えば逃げ去る小物ばかり。
実際には言いつけたにしてもそれがどうした、と言われるだけだろうが他人は実情を知らないので使える虎の威だった。
目を閉じ顔を俯ければ尚の事しか浮かばない。
ずっとこの一週間一緒にいたんだ。
すっかり尚の熱を覚えた身体は尚を思い出すだけで奥が疼いてくる。
身体には尚がつけた痕がたくさん残っている。
いずれ消えてなくなってしまうものだが…。
残っている内は尚を想っていてもいいだろうか…。
初めて普通に楽しいと思った。
まだ身体を繋げる前だ。
それを狂わせたのは自分だ。
初めての存在を手放したくなかった。
だから誘った。
誘惑するように。
尚はその後好きだと、愛してるまで口にしたけれど、きっと違う。
遥冬が尚を惑わせただけなんだ。
尚は恐らく勘違いしてるだけだ。
それでも遥冬はこの上なく幸せだと思った。
………そんな事を思ったのも初めてだ。
幸せなんてこの世で一番遥冬から縁遠い言葉だと思っていたのに。
そんな思いを味わえただけもいいんだ。
もういい。それは忘れろ。心の奥に仕舞っておけ。
それなのに…そのさらに奥底から尚を求める声がする。
助けて。
連れ出して。
鎖を、呪縛を断ち切って。
そんな事尚に求めちゃいけないのに。
このまま遥冬が尚に執着すればいずれ尚の生活にも支障をきたすかもしれないんだ。
そして尚を楯に取られ遥冬もいいように操られるかもしれないのだ。
そんな事はごめんだ。
だからこそこんな想いは心の奥に閉じ込め蓋をしておかなければならない。
それなのに閉じた蓋がどうしても緩んでしまうのだ。
尚を求めたくなる気持ちがどうしても押さえ込めない。
身体に残された痕が消えるまで…。
それまでに完璧に心の蓋を厳重に閉じなくては。
でもあと少しは想っていてもいいだろうか?
いや、想うだけならそのままずっとでもいいだろうか?
夏休みが終わって大学に戻っても尚と関係を続ける気はもうない。
離してやったほうが尚のためなんだ。
でも携帯に番号は残してもいいだろうか?
初めての幸せの痕を残していてもいいだろうか?
この先どうなるかなんて分からないけれど、今までで一番心が満たされた時間だった。
あのマンションに帰るのはもしかしたら辛いかもしれない。
幸せな満ち足りた空間がきっとあちこちに残っているから。
風呂場でもリビングでもベッドでも遥冬に満ち足りた想いを尚は与えてくれたから。
キッチンも尚は何度も立っている。尚がいなければキッチンを使う事もなかっただろう。
あのマンションには尚がいっぱい詰まっているんだ。
でも反対に言えばだからいいのかもしれない。幸せな時間を思い出せるから。
尚と一緒にいれた時間だけが遥冬の幸せだと思えた時間だったのだから。
この痕が消えるまでだ。
遥冬はそっと自分の胸を押さえた。
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