翌日になっても遥冬の気分は優れず、食欲もない。
ここでは遥冬の心配をするような者もいないので遥冬はただ一人部屋で横になって休んでいるだけだ。
ベッドで横になり眺めるのは尚の携帯番号だけ。
ここにかけたら尚の声が聞ける。
ちょっとここに指を触れるだけで尚と繋がるのに…。
だがそう思いながらも遥冬は携帯を閉じた。
心細いのは具合が悪い所為だ。
どうしても食欲は湧かず、吐き気があがってきてベッドの中で背中を丸めてそれを過ごした。
たった1日、2日…。
なのにもう尚と一緒にいれた事が遠い過去のようだ。
いや、夢の中の世界か。
幼い頃から風景も何も変わらない、遥冬にとって苦痛でしかないここが現実なんだ。
逃げ出そうとしても父親に繋がれた鎖で引き戻されてしまうんだ…。
…醜い…。
さらに翌日。智哉のお相手が到着し、夜には食事の席が設けられた。
田舎で立派なホテルもないここでは広い家のここの方がよほどいいし、家に慣れる為、と滞在は家にする事になっている。
相変わらず食欲もなくて吐き気ばかりもようしているが欠席するわけにはいかずに遥冬は料理を突くふりをして列席していた。
女の母親はゴテゴテとこれでもかという位指輪だったりネックレス、イヤリングと飾りつけている。そして娘と並んで醜悪な姿を晒していた。
全部にしまりがない。身体も顔も。
それなのにそのイヤラシイ宝石と同じように目だけがギラギラと光りを放ち、女の母親は家を物色、女は智哉と遥冬を物色していた。
親同士はおべっかの嵐。
遥冬はまた吐き気がこみ上げてくるがそれを我慢する。
…キモチワルイ…。
さすがに客が来ているのに箸をおいて中座は出来ないだろうからひたすら我慢するしかない。
いつもは向かいにいる兄が隣に座っていて、向いには女とその母親。
その女のねっとりと絡みつくような視線が智哉と遥冬を見比べている。
もしかして全部聞いているのか…?
女には知らせていないのかと思ったがどうやら事情を把握しているらしい。薄ら笑いを浮かべ、舌なめずりしそうな気配を感じ、ぞっと悪寒が身体を伝う。
「ご愁傷様」
他人事のように兄が隣で小さく呟いた。
どう考えても遥冬に向けられた言葉だろう。
尚につけられた痕は薄いものはすでに消え、濃く残されたものだけが点々と残るだけになっていた。
これが全部消えたら…。
気が狂いそうな位のどうしようもない焦燥感が胸を渦巻く。
真っ暗な闇の中を這いずり回って逃げている気がしてならない。
気分も具合も最悪なままどうにか時間を耐え、やっと遥冬は自室に戻れたが、その途中でトイレに駆け込み吐く物も胃の中にないのにやはり戻す。
ほとんど何も口にしなかった胃は少しの物さえも受け付けず、全部吐き出した。
水分だけは、と思ってトイレを出て部屋に戻る途中、水だけ持ってきてもらうように使用人に頼み、遥冬は自分の部屋に戻る。
倒れ込むように畳に横になって顔を覆った。
もう戻れない…。
………尚。
心の中で尚を呼び、思い出すしか遥冬には出来ないんだ。もう…。
そしてそのまま遥冬の意識が沈んでいった。
はっと遥冬が目を覚ますと自分のベッドに寝かせられ、腕には点滴が刺されていた。
倒れこんでいた遥冬を水を頼んだ使用人が届けに来て見つけたのだろう。
きっと秘密裏に医師を呼んできたに違いない。
はぁ、と遥冬は溜息を吐き出した。
点滴が終わる頃医師がもう一度やってきた。
近所の個人医院の先生で何かある時は必ずこの医師が呼ばれる。
「食欲は?」
「…ないです。食べても戻します」
はぁ、と医師も終わった点滴を外しながら溜息を吐き出した。
「明日も点滴をした方がいいだろう。明日また来る」
「……すみません」
この人も事情を知っているのかもしれない。兄が無精子症の可能性を示唆したのも多分この医師だろうから。
父の息のかかったここでは医師も意味ありげな視線を遥冬に向けても何も言えるはずもなく、黙って去っていく。
父の機嫌を損ねたら廃業に追い込まれるのは分かりきっているのだ。
遥冬は点滴のおかげか幾分具合はよくなった気はするがそのまま目を閉じる。
どこもかしこも逃げる場所なんてないんだ。
あと二日もしたら婚約式で、あの女の蛇に嘗め回されるような視線では殊勝な言葉などきっと出てこないのだろう。
いかにも待ち遠しい、と言わんばかりの視線だった。
遥冬はあの女を抱く、なんてどうしたって出来そうにないのだが…。
考えればまた吐き気が出てきそうだった。
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