千波の授業を教室の後ろで森がパイプ椅子に座り、熱心にメモを取りながら見ていた。
あれ位熱心にしていて教職をどうしようかと思っている、なんて勿体無いと千波は思うのだが…。
「熱心に聞いてメモとるのもいいけれど、問題を提示した時には生徒を見てくれてもいい。全員が理解したかどうかさすがに僕でも目が回らないから」
「分かりました」
一つ言えば森はすぐに行動に移せる。
千波がそう言った後は問題に四苦八苦する生徒を見つけては丁寧に教えている所を何度も見かける。
「篠崎先生、実習の森くんはいかがです?」
森は授業の後生徒に捕まっていたので千波は職員室に向かったのだ。
「初日ですがどこも何もいう所ない位ですね」
「それはよかった。まぁ、はじめから森くんはできそうな感じがしましたからね」
教頭先生が苦笑していた。
「どうかしましたか?」
「いえ、ほらもう一人の小出さんがねぇ…」
何か問題でもあったのだろうか?
「挨拶も緊張でろくに喋られず、指導案もイマイチで佐藤先生がやり直しをさせたらしいのですが、泣かれたそうで」
「はぁ…」
つくづくそんな女に当たらなくてよかった、と千波は息を吐く。
「篠崎先生」
そこへ森がちょっとやつれた様子でやってきた。
「ああ、解放された?」
「いや、参りました。彼女いるのか、とか、どこ住んでるの、とか…なんでそんな質問ばっかですかね?」
生徒に捕まっていた森がげんなりした様子なのに教頭先生と苦笑する。
「生徒からも森くんは受け入れられたらしい」
「そうですね」
「?」
森が秀麗な顔をちょっと顰める。
「そうですか?」
「ああ。そういう質問にイチイチ真面目に答えなくていいから」
「勿論ですけどね」
「じゃ、篠崎先生、森くんはよろしく」
「はい」
教頭先生がやれやれ、と呟きながら去っていく。
どうやらバカ女はかなり大変らしい。
「篠崎先生?どうか?」
「ああ…もう一人の実習生が…ちょっと、ね」
なるほど、と森も頷いた。
「俺は大丈夫ですか?」
「ああ。優秀だ、と言っただろう?」
ずっと森とは朝から一緒にいるからか大分空気にも慣れてきた感じがする。
森は実習生としてだけでなく、こうして一緒にいる分にも千波の神経を逆立てることはないし、まさしく当たりだった。
「篠崎先生、関係ない事聞いても構いませんか?」
「関係ない事?」
数学研究室では二人だ。職員室にいる事もあるが、千波は他の先生との付き合いも煩わしく感じ、どうしてもここで一人でいる事が多かった。
「はい。年いくつですか?」
「…27」
確かに関係はないが、気になるのは当然だろう。指導教員として千波が若いのは十も承知だ。
「先生して5年ですか?それで指導教員…やっぱり篠崎先生出来る方なんですねぇ。他の先生の授業はまだきいていませんけど、自分が受けた授業の事とか思い出せば、篠崎先生の授業は分かりやすいし重要な所もそんなり説明が入ってくる。声も気持ちいいですね」
「…声?そんな事を言われたのは初めてだ。君の声のほうが通るし、きっと耳を傾ける子も多いだろう」
「だといいですけど」
森が肩を竦めながら、まんざらでもないらしい。
どうやら声に多少自信はあるのだろう。
森はそれなりに自分に自信があるのだ。指導案もそう。そしてそれは確かに自信を持っていい位の出来だ。
でも森はそれを頑なに貫くわけでもなく、人のアドヴァイスもきちんと聞くし、普通だったら自意識過剰だ、と言いたくなるような事も森なら仕方ないか、と思わせる所がある。
「…君は得だな」
「はい?」
千波は自分が人付き合いが下手な事は知っている。
どうしても他人の気に食わない場所が見えてしまうと一緒にいるのが苦痛に感じてしまうのだ。
話し方が気に入らない。会話がうまくかみ合わない。から始まり、食事のマナーがよくない人もダメ。
些細な事でも気になってしまうと受け付けなくなってしまう。
それがよく分かっているのでそうならないように一人でいるのが一番いいのだ。
そういえば森にはまだ何も気にかかる所がない。
千波は銀縁の眼鏡の奥から向いで千波を見ていた森と視線を合わせた。
森も眼鏡の奥からじっと千波を見ていた。
「得です、か?」
「ああ…。自信に溢れているように見える」
「………そうでもないんですけどね。かつては自分にない才能というのに挫折しましたよ?努力だけでは決して手に入らない才能、というものにね…」
ふっと苦笑を漏らした森の瞳の奥に傷が見えた。
自信に溢れていると思った森でもなにかに挫折を感じたのか…。
何にだろう…?
ほんの少しだけ聞いてみたい気に駆られる。
いや、人と深く関わらない方がいい。
千波は森から視線を背け、自分の授業の準備を始めた。
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