「その…ありがとう」
「いいえ…かえってご馳走にまでなって…。それに分からない所も教えていただいたので」
帰るという孝明を見送るのに千波はミューを抱っこして玄関に立った。
「………」
靴を履いた孝明がじっと千波を見ていた。
やはり帰られるのが物寂しく思えてしまう。
ミューは孝明がいれば玄関先まで行く事がなく、ずっと一人で遊んだり、撫でてと近づいてきたり、膝に乗ったり、と好きな様にしていた。
「…俺が先に来て……ミューはやっぱり千波さんを待つように玄関に何度も行きましたよ?」
孝明が顔をミューに近づけミューを撫でながらそう言った。
「…日中も…いない時…何度も確かめた…のかな…?」
「…多分ね」
千波は寂しい思いをさせていたかのか、とぎゅっとミューを抱きしめると、孝明はミューに近付けていた顔を上げ下から千波を覗き込むように視線を向けてきたのにどきりとした。
そのまま孝明が顔をそっと近づけてくるのに千波は思わず目を瞑った。
………触れるだけの軽いキス。
そして孝明が静かに離れる。
「ではまた明日」
「……あ、ああ」
なんで、キスなんて…?
そう聞きたいのに聞けない。
「……千尋と全然似てないですね…?」
「え?ああ。似てないと思うけど…?」
それは誰にでも言われていた事だ。
「じゃあ」
「あ、気をつけて………ありがとう」
ちょっと寂しいなんて思っちゃいけないんだ。
軽いキスに心臓がドキドキしている。
閉まったドアに千波ははぁ、と小さく息を漏らしてからミューを降ろし、鍵を締めた。
思わず自分の口を押さえてしまう。
なんで、孝明はキスした…?
もう何度もしてるから何度したって同じだって孝明は言ってたけど、全然違う。
最初は驚いただけ。
今は…。
千波はかっと頬を赤くしながら首を振った。
学校ではまだいい。
髪を上げ、伊達眼鏡をして呼び方も篠崎先生だから。
視線もたまに眼鏡の奥からじっと見られることもあるが、すぐに外れるので気にはならない。
ならないけれど、千波はどうしても落ち着かなくなってしまう。
出さないように、出ないようにと必死に自分に言い聞かせていた。
昨日は帰りに寄ってもらってミューを頼んだけれど、明日の水曜は公開授業があるのでさすがにミューの事は頼めない。
お疲れ様でした、という孝明に明日頑張って、と声をかけただけで孝明は帰って行った。
職員室に行くと佐藤先生がいた。
「今日はもう終わったのですか?」
いつも指導案の練り直しで時間が結構かかっていたのに今日はすでに小出さんも終わったらしい。
「一応…。でもどうなんでしょうね…不安しかないですよ」
はぁ、とやつれた顔で佐藤先生が大きな溜息を吐き出していた。
「森君は何も問題なし、なんでしょうねぇ」
「…ないですね」
すみません、と言いかけて謝るのもなんだな、と千波は言葉を引っ込めた。
ミューが心配で早めに帰るとやっぱりミューは玄関前にちょこんと座って待っていた。
「ミュー、ただいま」
みゃーと可愛く鳴いて千波の足に頭をぶつけるようにしてこすり付けてくる。
「寂しいよな…ごめんな…」
待ってくれている存在が愛おしい。
こんなにカワイイと思えるようになるなんて思ってもみなくて思わず千波は笑ってしまう。
もうミューがいないのが考えられない。
まだたった何日なのに。
「さ、ご飯にしようか?腹減っただろ?」
千波の足元にじゃれながらついてくる。
今日はミューを抱き上げてくれる腕がないんだ…。
千波は小さく首を振ってキッチンに向かった。
何があるわけでもなく、その日もミューと一緒にベッドへ。
ミューは一晩中一緒に寝ているのか、起きているのかはイマイチ分からないけれど、寝るときも起きても必ず傍にいた。
千波が着替えて出勤の準備を整えると千波がいなくなるのが分かるのか擦り寄ってくる。
「ミュー行ってくるね。大人しくしててね…?」
見送るように玄関に座られると出ていくのが辛い。
でも今日は孝明の公開授業もあるし少し早めに行かなければ…。
もう一度だけミューを撫でて玄関を閉めた。
外に出ちゃいけないのが分かっているのかミューはちゃんといつも玄関先で座っている。
孝明が頭がいいと誉めてくれるけれど、本当にそうなのだろうと思う。
ミュー以外動物を間近に知らない千波はどれ位ミューがおりこうさんなのかは分からないけれど。
ミューの事ばっかり考える頭に自分で苦笑してしまう。
頭を切り替えなくては!
駅に向かいながら千波は教職モードにスイッチを入れた。
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