とりあえず穏便に、という事になったが職員室に戻っても千波はずっとむっとした顔をしていた。
「篠崎先生怒らすと静かに怖いんですねぇ…。気をつけます」
佐藤先生がちらちらと千波を伺ってくるのに千波はそう思われていた方が都合がよさそうだと黙っておく。
そうしておけば鬱憤晴らしに飲みに誘われることもなくなるだろう。
すくっと千波が立ち上がると佐藤先生がびくっと身体を揺らしたのに呆れた視線を向けた。
「…数学研究室に行ってます」
「は、はい。どうぞ」
なんだかんだと話しかけられていた佐藤先生が大人しくなれば職員室にいるのも少しは苦でもなくなるかもしれない。
孝明が職員室にいろって言うから…。
あ……。
そうか、あと二日で教育実習が終わってしまうんだ。
千波は授業中で静かな廊下を数学研究室に向かった。
がらりと引き戸を開けると孝明が机に向かって書き物をしていた。
「お疲れ様。授業よか…っ!」
千波の顔を見ると孝明が即座に立ち上がってそして千波を抱きしめてきた。
「な、にしてっ!」
「千波さんステキすぎです」
「はぁ!?」
くっくっと笑って身体を揺らしながら孝明は千波を抱きすくめ、千波の耳にキスした。
「なにしてる…っ!」
「今は授業中ですしここは3階で外からでも誰にも見えませんから」
「そ、ういう問題じゃ…っ!学校ではダメだ!」
「学校じゃなければいいですか?今日千波さんの部屋に行っても?」
孝明が腕を離したのにほっと千波は息を吐き出した。
「…ミューも…待ってる…から」
ふいと孝明から視線を背け、言い訳するように千波が言った。
言い訳じゃない!本当にミューは待ってるんだから!
「じゃあ夜まで我慢します」
孝明が目の前で眼鏡の下から意味ありげにじっと千波を見ていたその視線にずくりと身体が戦慄いた。
そんな目で見るな。
…期待してしまいそうになる。
孝明は珍しがってるか、面白がってるだけだろう。
いい年してキスも初めてだった千波が動揺するのが楽しいんだ、きっと。
孝明が千波の向いの席に戻る。
「俺の授業、大丈夫でしたか?」
「当たり前、だ…。…足りないのは初々しさ位だ、と…他の先生方も言ってらした」
孝明はくすと笑って満足そうに肩を竦めた。
「教師、に向いてる…と思う…」
千波はまだ動揺していたがなんでもない、と自分に言い聞かせながら小さく呟いた。
「……そうですね。いいかも、と思います」
ぱっと千波が孝明を見ると、また孝明がじっと千波を見ていた。まるで見透かされているような強い視線だ。
「…う、ん…いい、とおも…」
「なんといってもどこかで千波さんと一緒の職場になる可能性が高いって事ですから」
「そりゃ…公立の中学校だったら移動とかで…それもある、だろうけど…」
何を言い出すのかと千波はこくりと唾を飲み込んだ。そんなの今は関係ない、のに…。
意味ありげな視線。
そんな目を向けられても困るだけだ。
千波は孝明を見ないようにして自分の席に座る。
それでも孝明がじっと千波を視線で追っているのを感じた。
全部、知られているんだ。
生活のスペースも身体も、全部丸裸にされているように感じてしまう。
誰も、知らなかった事なのに。
孝明は千波の仕事もプライヴェートも全部…。
「…見るな」
「……どうしてです?」
どうして?
そんな執着しているような目を向けられたら自分が自分でなくなる気がする。
さっきの抱きしめられたのだって全然嫌なんかでもなくむしろ期待に身体が反応しそうな位だったんだから。
「…千波さん、何を考えているんですか?」
「…別に何も」
千波は自分の心の中を必死に押し隠し、何事もなかったような顔ですっと孝明を見ると孝明ははぁ、と溜息を吐き出した。
「……なかなか崩れない…」
「?」
「いえ、なんでも」
孝明も視線を千波から外すと自分の手元に向け、そしてペンを走らせ始めた。
それに千波もほっと安堵し、心が平静に戻っていくのを感じる。
意識するな。
甘い事考えるんじゃない。
頭の中は孝明の事で渦巻いていたけれど、日々のしなければいけない事はもう考えなくても出来るらしい。
こんなに一人の事を考えるのは初めてだ。
なんで男相手に…。
そう思ったって止める事が自分でも出来ない。
孝明に気付かれないように浅く息を吐く。
今は目の前の事に集中しろ!
そう必死に自分に言い聞かせるしかなかった。
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