公開授業を終えればあとはもう一安心だ。
半分以上肩の荷が降りた気がする。それでなくとも学校での孝明には何の問題もないのだから。
生徒のあしらいも千波よりも上手いかもしれない。
千波の所に寄ってくる生徒は一部だが、表向き真面目そうでにこやかな孝明の所には男女問わず生徒が集まっている。
眼鏡を外し、髪を下ろすと雰囲気はまるで変わって悪い男の色気が出る感じがするのに学校ではそれは全然見えないんだ。
…ちょっと見せるのは数学研究室で千波と二人でいる時だけだ。
勿論千波がそれを知っているからだろうけど。
自分でイケてた、なんて言う位で高校の頃から大分遊んだのだろう。でもそんな雰囲気なんて学校では微塵も感じない。
だからこそ教生としての孝明には何も問題ないけど…。問題があるのは千波自身にと校外での孝明にだ。
ミューの事で世話になったのは感謝してる。
してるけど…。
授業を終え、クラスでの事も終えると廊下を歩きながら孝明がそっと千波にだけ聞こえるように小声で話しかけてきた。
「千波さん、あと職員室に行かれるんでしょう?鍵、お借りしても?」
「あ、ああ…ミュー…を頼む」
「勿論です」
孝明が当然の様に頷き、誰にも見られる心配のない数学研究室に寄って孝明に鍵を渡した。
「…そんな簡単に鍵渡してダメでしょう?」
「か、簡単に、って…」
「俺が悪いやつだったらどうすんですか」
「だ、って…孝明は別に…」
「何もしませんけど。……いえ、千波さん自身には手出してますけどね」
くすりと孝明が笑みを浮べたのに千波は言葉が詰まって返せない。だが、孝明はそれ以上余計な事は言わなかった。
「帰り何時位になりますか?」
「どうだろう…なるたけ早く、終わるようにするつもりだけど…。今日の公開授業についての話もあるだろうから…」
「分かりました。遅いようならミューにご飯もあげときます」
「…うん…頼む…」
そのまま一緒に職員室へ。
人目のあるところではめったに孝明は個人的な事は口にしないのでそれに安心してしまう。
二人きりでいるとどうしても落ち着かなくなるのに、それでも安心して鍵を渡している。
今日も帰れば孝明とミューが待っててくれるんだ…。
そう思うとうっすらと千波の顔に笑みが広がってしまう。
「…千波さん」
「ん…え?…なんだ?」
横を歩いていた孝明が千波を覗き込むように見て小さく名前を呼んだ。
名前?
廊下などでは篠崎先生、だったのに。思わず千波はどきりとしたが授業が終わって喧騒としている廊下で小さく囁くように言った孝明の声は横にいる千波にしか聞こえていないはず。
「……なんでもありません」
「そう…?」
じゃあ何で呼んだのか?
千波は頭を捻ったが、別に気にする所でもないのでそのまま黙って職員室に向かった。
思ったより遅くなってしまった。
急ぎ足で千波は駅に向かった。
それもミュー一人だったら心配だが、孝明が先に帰っているので安心はしているのだが。
きっと孝明はミューを最初から見て、心配してくれていたから…、だからきっと千波の中で孝明は信用に値する人物になっているんだ。
それにミューも。
自分に害意を持っているようなヤツの膝や腹の上で眠ったりしないだろう。
だから鍵を渡せるんだ…。
そうじゃなきゃ誰が他人に鍵を預けるか…。
それにしたってまだ知り合って2週間ちょっとだけなのに。
ミューが安心しきっているように千波も安心しきっている…?
いや、別に部屋に重要なものなんか特に置いてないし、…でもそうだとしても他人に鍵を渡すなんて自分でも考えられない事だとは思う。
…ミューがいるから、だ。
自分の中で孝明の存在に常に相反する気持ちが渦巻いてしまう。
でも、こうして自分の部屋で待っているだろう存在を考えるとどうしても顔が緩んできてしまう。
孝明に嫌われてはいないだろう事ははっきりと分かる。
ミューの事も可愛いと思っているだろう事も。
そうじゃなきゃわざわざミューの為に来ないだろうから。
…こんなに孝明の事ばかり考えて、と思ってぱっと外を見ようかと顔を上げた時、電車の夜で暗いガラスに映った自分の顔にはっとした。
そしてかあっと恥かしくなる。
そこに映っていた自分の顔が見た事もないように幸せそうに見えたから。
なんだ、この締まりない顔は!
千波はきゅっと口を引き結んだ。
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