9 泰明(TAIMEI) 「可愛い!」
目の前のイルカに五十嵐が頬を紅潮させていた。
きゅい、と鳴き声をあげるイルカに五十嵐の顔に見た事のない満面の笑みが浮かんでいる。
調教師に言われる通りに五十嵐が手を回すとイルカも回った。
「六平!」
ぱっと五十嵐が泰明の方を嬉しそうに見る。
「…見てたよ?」
水族館に五十嵐はかなりご満悦だったらしい。
ここに向かってくる間の五十嵐の終始俯いた顔や態度と全然違う。学校にいる時とも全然違う。
いったいどれが本当の五十嵐なんだろうか?
入り口のまるで海の中にいるような回廊で五十嵐は水槽にへばりついてしばらくの間動かなかった。
アザラシの所も。
その他の鯨やマンボウなどずっといつまでも飽きずに見ている。
嬉しそうな表情で見ているのを急かすのも可哀想で泰明はその五十嵐を見ていた。
じっと水槽を泳ぐ姿に見入る五十嵐に泰明は見入っていたのだ。
イルカと握手してバイバイと五十嵐が手を振るとイルカもバイバイとしてくれている。
「六平!」
泰明はただそれを見ていただけで、その泰明の所にパタパタと走って戻ってきた五十嵐が泰明のTシャツを掴んだ。
「可愛い!」
「…よかったな」
そういう五十嵐の方がいつもよりもずっと可愛く見える、とは言わないけれど。
こんな表情も出来るんじゃないか、という位五十嵐の表情が明るい。
そして続きの水槽をまたじっと五十嵐は時間をかけて見入っていく。
そんなに魚の泳いでるとこ見て何が楽しいのか、と泰明は思ってしまうけれど…。
大量のクラゲがたゆたう水槽でも五十嵐はぽうっとそれに見惚れている。
まぁ、確かにクラゲの所は幻想的といってもいい位だった。
そして五十嵐が空の小さい水槽の前で足を止めた。
空なのに何を見ているのかと思ったらクリオネと書かれていた。
じっと空の水槽を見ている。
見てみたかったのだろうか…?
説明を読めば冬しかクリオネは展示されないらしい。
「……また連れて来てやるよ」
「え?」
「クリオネ、見たかったんだろ?冬にまた来ればいい」
「……別にそんなんじゃない」
つんと五十嵐が答えるけれど見たかった、と顔に書かれている。
「知ってるか?餌を捕食するときは悪魔の顔になるんだぞ?」
「え!?」
五十嵐が大きい黒い目をさらに大きく見開く。
「…悪魔…?」
そしてどんなだろう?とでも考えているのか眉間に皺が寄っていた。
泰明はくっと笑って五十嵐の後ろ頭をぽんと叩いた。
「冬にな」
「……別に頼んでない」
強がりだろう。口がそんな事を言ってても顔が、態度が微妙に照れている。
素直に自分を出せないのか…。
面白い…。
「あ、五十嵐、ちょっとここで待ってろ」
ベンチがあったのにそこに五十嵐を座らせ、そして泰明は急いで通り過ぎた売店まで戻る。
かなり水族館が気に入ったらしい五十嵐に何か買ってやろうと売店まで戻ったのだ。
イルカ?アザラシ?
どっちがいいか…。
結局少し大きめのイルカにした。
胸に抱ける位の。
ベンチに座っている五十嵐の後姿が見える。
小さくなって俯いて。
学校ではつんと顎をそらし自分を保っているのだろうか…?
「はい」
「……えっ!?」
わざと袋に入れてもらわなかったイルカのぬいぐるみを五十嵐の胸に突きつけた。
「…え、と……?」
「どうぞ?」
「…………あり、がと…」
ぱぁっと頬を赤くした五十嵐におや、と泰明も少しばかり目を惹かれた。
きゅっと胸にイルカのぬいぐるみを抱いているのがカワイイぞ?
……ぬいぐるみが似合う男子高校生…。
泰明は頭を抱えたくなった。
今更ながら秀邦で今まで五十嵐が可愛いともてはやされていた意味が分かった。
「可愛いな」
「…は?」
「いや…」
五十嵐を立たせて続きを歩いていくが、五十嵐がイルカを大事そうに抱えているのにどうも泰明の方が落ち着かなくなってくる。
イルカを抱いたままでペンギンに見入ったりしているその姿はどうしたってムサイ男子高校生には見えない。
黒い大きな目も細い小さな身体も男子高校生には見えないし、ぱっと見女の子に見えない事もないかと思える位に可愛いとも思ってしまった。
秀邦に自分も知らず知らず毒されていたのか、と泰明は溜息を吐き出した。
テーマ : BL小説
ジャンル : 小説・文学