電話が鳴った。
「はい、高比良ピアノ教室です」
母親がやっていたピアノ教室だ。母親が急に亡くなって引き継ぐ形になってよかったのか悪いのか…。男のピアノの先生なんて抵抗があるだろうに、母に習っていた生徒さんのほとんどが残ってくれて自分的には助かったが…。
『すみません、大人でも教えていただけるのでしょうか?』
男の声。大人でも?この声の主が、だろうか?低くて甘くて腰に響くようないい大人の男の声だ。
「ええ。初心者でも上級者でも丁寧に指導いたしますけど…ご本人様ですか?」
『はい。一応昔は習ってました』
「…ツェルニー何番位まで?」
『50番か60番…かな?確か』
結構弾けるじゃないか!
大人の初心者に教えるのはちょっと大変だな…と思っていたけど経験者らしいのにほっとした。
『ただずっと弾いてなかったので指はさっぱり動かなくなってます』
「大丈夫ですよ。今弾ける曲ありますか?体験レッスンしてますので一度いらっしゃってみてください」
『是非。曲はなんでもいい?あ、仕事しているので遅い時間でもレッスンは可能ですか?仕事が休みの日だったらいつでもいいですけど…』
「曲はなんでも結構です。時間も遅くでも大丈夫です。私の方にレッスンが入ってなければ…」
……ホントいい声。ずっと聞いていたい様な声だ。
本人はどんな人なんだろう…?ちょっと…いや、ものすごく楽しみだ。大人というだけでも興味が湧くのにさらに男性でそれなりの経験者とくればかなり期待してしまいそうだ。…そして声がいいのがまた…。
いや、生徒さんになるかもしれないのに何を考えているんだ。
「いつがよろしいでしょうか?」
曜日と時間を合わせる。男性は火曜日が仕事が休みらしい。その日はレッスンを入れていなかったがまぁいいや、と火曜日の夕方に体験レッスンを入れる事にした。
「ではお待ちしております」
場所も近所なのか家も知っているらしい。本当に来るのだろうかと思いつつ電話を切った。
大人の生徒は仕事などの関係上なかなか長くレッスンが続かないものだが…。でも以前習っていてそれなりに弾けるなら来るだろうか?
ちょっと期待してしまう。
約束の火曜日。高比良 凪(たかひら なぎ)は少しばかりそわそわとしていた。
声から若い男性だろうとは思っていた。さて、どんな人があらわれるのだろうか?
約束の5時ほんのちょっと前、インターホンが鳴って玄関を開けた。
「すみません、体験レッスンお願いしていた三塚と申しますが」
「…はい、お待ちしてました。どうぞ」
子供にはスリッパは勧めないけれど大人なのでスリッパを出し、玄関からすぐのドアを開け案内した。
…それにしても生で聞いてもいい声だ。こういう声をベルベットボイスとでも言うのだろうか?艶のある声で腰まで響きそうな声。背が高い。それに声に合って色気ある男らしいかっこよさだ。凪にはないものだ。
大きなグランドピアノが二台並んでいるレッスン部屋に入る。
「そちらのピアノにどうぞ。…曲は何を?」
「一応…ベートーベンの悲愴の3楽章を…。いいけど…指がホント動かなくて…」
男が苦笑しながら楽譜を取り出し譜面たての前に置いた。
…楽譜がヘンレ版だ…。これは…。
「…音大とか行ってらした…?」
「いえ。行きたかったんですけどね。受験を挫折してそこで終了。それ以降ピアノ触ってなかったもので…8年位…かな」
26歳位?もしかして同じ年か?
男は椅子に座ったが高かったのか椅子を調整している。そして座りなおしてはぁ、と溜息を大きく吐き出している。
「……緊張する」
凪の方をちらっと見て男がそう小さく言葉を漏らし、くすっと思わず凪は笑ってしまう。
「…分かります。でも間違っても全然平気なので、あまり気負わずにどうぞ」
そんな事言われたって緊張など解けない。それも凪も勿論よく分かっている。
しかし8年もピアノに触っていなかった?それで悲愴の3楽章?楽譜はヘンレ版で?
かなり弾けるやつなのだろう。
さてどんな演奏をしてくれるのだろうか?
男が鍵盤に指を置いてなんども肩を上下に揺らし、深呼吸を繰り返す。
気持ちがよくわかる…。見ているこっちまで緊張のドキドキが伝わって来そうな気がしてくる。
その心情があまりにも分かりすぎてつい凪は苦笑が浮かんでしまった。
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